第82話 願いを結ぶ橋
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二人きりになった。
広場の喧騒が再び俺たちを包み込んだけど、その一瞬だけは、この修善寺の真ん中に俺たちしかいないような気がした。
「さて……」
真希は髪をひと房、耳にかけながら、目の前に広がる通りを見渡した。
「どこから案内してくれるの、慧翔くん?」
「まずは静かな場所からかな。人が増える前に、少し散歩しよう」
自然と手を差し出した。
「行こうか?」
真希は一瞬その手を見つめた。少し驚いたように瞬きをしてから、そっと指を絡めてくる。そのぬくもりに、心臓が大きく跳ねた。
彼女の手は少し冷たかった。でも、こうして握っていると、不思議と温かく感じられた。
「うん。案内して、慧翔くん。あなたが大切にしてきたものを、全部見てみたい」
手をつないだまま歩き出し、広場を後にして、修善寺の歴史ある街並みへゆっくりと足を踏み入れた。
石畳を踏む足音が、絶え間なく流れる川のせせらぎと静かに溶け合っていた。
「町を流れてる川は、桂川っていうんだ」
左手を流れる川を指さした。
「修善寺の中心って言ってもいい場所かな。大事なものは、ほとんどこの川の周りに集まってるんだ」
「綺麗……」
真希は川の流れを目で追いながら、小さく呟いた。
「水が岩に当たる音がすごく心地いい。都会とは全然違う空気だね。なんだか……昔から時間が止まったままみたい」
「まだ一番いい場所は見せてないよ。こっち」
彼女を連れて、桂橋へ向かった。鮮やかな朱色の木橋が、深い緑に囲まれてひときわ美しく映えていた。
橋を渡る途中、真希はそっと手を離し、欄干に手を添えながら、川面に揺れる朝日の光を見つめた。
朝の風が、オリーブグリーンのワンピースを優しく揺らす。
その光景は、一瞬だけ映画のワンシーンのようだった。
いや、小説の表紙みたいだった。
「この橋……何だか特別な感じがするね?」
隠しきれない好奇心を浮かべながら、俺のほうを見た。
「えっと……この辺では、桂橋は『恋の橋』って呼ばれてるんだ」
首まで熱くなるのを感じながら答えた。
「好きな人と一緒に橋を渡って願い事をすると、叶うって言い伝えがある」
照れ隠しに小さく笑う。
「まあ、田舎によくある話だけど」
真希は柔らかく微笑んだ。
俺が一番好きな笑い方だった。
「私は、ただのおまじないだとは思わないよ、慧翔くん。本当に意味があると信じる人がいるなら、それだけで十分価値があるものだと思う。それに……私には、ここが最高のロマンスの舞台に見える。きっと、たくさんの作家が、こんな景色から物語を生み出してきたんだろうね」
少し間を置いて、もう一度こちらを見つめた。
「それに……」
「うん?」
「せっかくだし、試してみない?」
もう一度指を絡めてきた。
今度は、さっきより少しだけ強く。
「そうしたいなら、やろう。でも……何を願うんだ?」
真希は人差し指を唇に当てて、内緒というように微笑んだ。
「秘密」
優しく笑う。
「行こう、慧翔くん」
反応する間もなく、彼女はそっと俺の手を引いた。
仕方なくついていきながら、小さな好奇心が胸に芽生える。
願うなら……本当に、この言い伝えが叶いますように。
橋の真ん中まで来ると、真希はゆっくり目を閉じ、風に溶けるような小さな声で何かを呟いた。
きっと願い事をしたんだろう。
じっと見つめているのも悪い気がして、俺も静かに目を閉じた。
心の中で願い事を唱え、目を開ける。
いつか、本当に叶う日が来るんだろうか。
その答えを知っているのは、きっと時間だけだ。
橋を渡り切ると、真希が俺を見上げた。
「次はどこに行くの?」
「こっち。人が増える前に、君に見せたい場所がある」
赤い橋を後にして、竹林の小径へと足を踏み入れた。
入り口をくぐると、空気が少しひんやりとした。湿った土と青々とした竹の香りを含んだ冷たい空気が、一瞬で俺たちを包み込む。
空高く伸びる青竹の間から差し込む細い陽光が、石畳の上に金色のまだら模様を落としていた。
真希はすっかり言葉を失っていた。
ゆっくりと歩きながら視線を上へ向け、一本一本の竹を目に焼き付けるように、その景色を静かに眺めている。
静寂を破るのは、風に揺れる竹の葉が擦れ合う、かすかな音だけだった。
「すごい……」
その静けさを壊さないように、彼女はそっと呟いた。
「一歩踏み間違えたら、そのまま別の時代に迷い込んじゃいそう。光も……色も……慧翔くん、連れてきてくれてありがとう」
ここは真夜が教えてくれた場所だった。
でも、まさかここまで感動してくれるとは思わなかった。
どうやら、本当に来た甲斐があったらしい。
今はただ、この時間を彼女と一緒に味わいたかった。
真希は自然な足取りで、小道の中央に置かれた大きな円形の竹のベンチに腰を下ろし、もう一度、見惚れるように竹林を眺めた。
「ここに来たことある?」
その質問は予想していた。
問題は、どう答えればいいのか自分でもよくわからないことだった。
「えっと……たぶん、ある……かな。あんまり覚えてないけど」
真希は首をかしげ、小さくいたずらっぽく笑った。
どうやら、まったく信じていないらしい。
竹の隙間から差し込む金色の光が、彼女の黒い瞳に柔らかく映り込んでいた。
「作家なのに、嘘をつくのはあんまり上手じゃないんだね、慧翔くん」
穏やかでどこか楽しそうな口調でそう言うと、隣の空いた場所を軽くぽんぽんと叩いた。
「ほら、座って。誰かに勧められたって正直に言ったくらいで、怒ったりしないから」
後ろ頭をかきながら、また頬が熱くなるのを感じつつ、結局は彼女の隣へ腰を下ろした。
竹のベンチはひんやりとしていて、その冷たさが心地よかった。
「わかったよ……降参」
苦笑しながら、彼女へ視線を向ける。
「真夜のアイデアなんだ。君を連れて行くなら絶対ここがいいって、あいつが何度もしつこく勧めてきてさ」
小さく笑ってから続けた。
「ここは俺の故郷だけど、この竹林をこんなふうにゆっくり歩いたことはなかったんだ。ずっと当たり前の景色だったからさ……近くにあるものほど、誰かと一緒に見て初めて、その良さに気づくものなんだな」
「真夜ちゃんって、本当に頼りになるね」
優しく微笑みながら呟く。
そして少しだけ身を寄せ、肩が自然に触れ合う距離まで近づいた。
「でも、真夜ちゃんのアイデアだったことなんて気にしてないよ。大事なのは、あなたが私をここへ連れてきてくれたこと。それに……あなたと、この景色を初めて一緒に見られたことだから」
再び竹林に静寂が戻る。
でも、それはもう気まずい沈黙じゃなかった。
穏やかで、どこまでも温かな静けさ。
まるで、この場所だけ時間がゆっくり流れているかのようだった。




