第81話 二人だけの一日
今はとりあえず、できるだけメモを取ることにした。それに、彼のアドバイスを一つひとつ噛みしめるうちに、どれももっともだと思えてきた。
「わかった。シンプルに、想像力を刺激してくれる場所だな。ありがとう、雨宮。もっと笑われると思ってた」
「くくく……誘惑しないでくれよ、和泉くん〜。
お前の反応を見るのは面白いけど、同じ書き手として、大事な前夜を台無しにするほど野暮じゃない。
幸せへのささやかな貢献だと思ってくれ。ただし、次に坂本さんと集まる時は結果報告を聞く権利だけはもらうからな」
「はいはい。戻ったら話すかもしれない。でも、今は坂本さんには何も言わないでくれよ?」
「言うつもりはなかったさ。むしろ、それを言おうとしてたところだ。まあ、デート頑張れよ、色男さん〜〜」
返事をする前に電話は切れた。
やっぱり、彼はそういうやつなんだ。
雨宮はいつも本心を隠していて、あの軽口の裏に本音をしまい込んでいる。でも、誰かが助けを必要としている時は、めったに見せない大人びた一面を見せてくれる。
少なくとも、俺はそう信じている。
もう寝よう。
準備は全部整った。あとは明日を待つだけだ。
* * *
翌朝、カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいた。
少し早めに起きて、冷たいシャワーで緊張をほぐし、予定通りの服に着替えた。
鏡で自分の姿を確認すると、悪くない仕上がりだった。シンプルだけど、狙い通りの印象だ。
階段を下りようとした時、真希の部屋のドアが少し開いていることに気づいた。
近づこうかと思ったけど、なぜか足が止まった。
すると、真夜が入り口に立ち、部屋の中の誰かと驚くほど真剣な表情で話しているのが見えた。
何を話しているのかまでは聞こえなかったけど、大事な話をしているような雰囲気だった。
「入っていったほうがいいのか……?」
一歩踏み出そうとした瞬間、真夜が顔を上げて俺に気づいた。
一瞬目を見開いたかと思うと、何か都合の悪いものでも見られたかのように、すぐ部屋へ入ってドアを閉めた。
「……どうやら忙しそうだな」
無理に入っていく理由もなかった。
自分の部屋へ戻ると、ちょうどスマホが震えた。
【先に待ち合わせ場所へ行ってて。私は真夜ちゃんに手伝ってもらってから行くね。】
どうして今日に限って……。
「仕方ないか」
* * *
…………………
………………
…………
結局、待ち合わせ場所――修善寺の小さな中央広場に一人で着いた。
そこで待ちながら、どこか懐かしく、それでいて少し緊張した気持ちになっていた。
ここは俺が育った町だ。石畳の道が緩やかな坂を縫うように続き、遠くからは桂川のせせらぎが聞こえ、空気には温泉と自然の香りが漂っている。
この町の隅々まで、自分の手のひらのようによく知っている。
だからこそ、その責任の重さも感じていた。
真希は「インスピレーションを得るために新しいものを見たい」と言っていた。
俺の目を通して、この景色を見たいと思ってくれている。
だから今日、彼女を案内するのは……俺なんだ。
スマホの時計を確認するのは、この五分の間でもう四回目だった。
朝の日差しは少しずつ暖かさを増していた。風はまだ冷たかったけど、雨宮に勧められたオックスフォードシャツの襟が、緊張のせいでやけに窮屈に感じられた。
どうしてこんなに時間がかかるんだろう……?
スマホをポケットにしまい、静かに待ち続けた。
せめて真夜がちゃんと手伝ってくれているといいけど。
「お兄ちゃーん!」
広場の穏やかなざわめきを裂くように、弾んだ高い声が響いた。
メインストリートの方へ顔を向けると、真夜が軽やかな足取りでこちらへ近づきながら、満足そうな笑顔で手を振っていた。
でも、俺の視線は彼女ではなく、その隣に向かった。
すぐ隣を、ゆったりとした足取りで歩く真希。
一瞬、息をのんだ。
オリーブグリーンの軽やかなワンピースは、長い黒髪と見事に調和していた。クリーム色の薄手のジャケットが、その上品で落ち着いた雰囲気をさらに引き立てている。
派手さはない。でも、その装いは彼女の雰囲気と、どこか謎めいた静けさを完璧に際立たせていた。
真夜が選んだのは一目でわかった。ただ綺麗に見せるだけじゃなく、真希らしさが一番引き立つように考えられていた。
「任務完了! 無事に、それも完璧にお届けしたよ」
まるで自分のほうがお姉さんみたいな顔をしていた。誇らしげな表情からして、全部自分の手柄だと思っているんだろう。
「おや、お兄ちゃん……ちゃんとシャツにアイロンかけたんだね。頑張ったってことで、十点満点中七点かな」
「こんにちは、慧翔くん……待たせちゃってごめんね」
真希は小さな声でそう言った。頬はほんのり赤く染まり、なかなか俺と目を合わせようとしなかった。
「真夜ちゃんが……いろいろ手伝ってくれて、それで少し時間がかかっちゃって」
「気にしなくていいよ。俺も今来たところだから」
真夜の厳しい視線を受けながら、後ろ頭をかいて少しぎこちなく笑った。
それで十分だと思った。
でも、真夜はまだ何かを期待するように、じっと俺を見つめている。
……ああ。
そういうことか。
「すごく……綺麗だよ、真希。そのワンピース、本当によく似合ってる」
真希はゆっくり顔を上げ、口元に小さく、それでも確かな笑みを浮かべた。
「ありがとう……真夜ちゃんが、この色をすごく勧めてくれたの。気に入ってもらえて嬉しい」
「当然でしょ! 私のファッションセンスに間違いはないんだから」
真夜は勝ち誇ったように会話へ割り込み、遠慮なく真希を俺のほうへそっと押し出した。
「よし、私の仕事はここまで! お姉ちゃん、このバカがお姉ちゃんを退屈させたり、変な場所に連れて行ったら、すぐメッセージしてね。すぐ助けに行くから。それじゃ、デート楽しんで!」
返事をする間もなく、真夜は鼻歌交じりに振り返り、そのまま去っていった。
今朝の「共犯者」としての役目を果たし切ったことに、心から満足しているようだった。




