第78話 小さなご褒美
彼女はキッチンへ向かい、俺はリビングへ向かった。そこで真夜に真希の決断を伝え、ついでに父さんと母さんにもメッセージを送った。
二人とも快く賛成してくれて、その返事からも期待しているのが伝わってきた。
母さんは、お客さんに料理をさせるのはどうかと言っていたけど、最後には承諾してくれた。
きっと彼女は驚かせてくれる。
何しろ、真希だからな。
それに……
たぶん、こういう場面はもう小説の中で書いているはずだ。そう考えると、それが一番ありえそうだった。
───
リビングで真夜と一緒にテレビを見ていた。
真希を手伝いに行こうかとも思ったけど、あまりにも楽しそうに集中して料理をしていたから、邪魔をする気にはなれなかった。
「えへへ〜。どうやら誰かさん、彼女と離れてるのが我慢できないみたいだね〜」
「うるさい……そういうわけじゃ……」
「ねえ、お兄ちゃん。明日、お姉ちゃんをこの辺案内してあげたら? 二人きりでお散歩したり、手を繋いだり……きゃあ〜♪」
「お前が好きな恋愛小説じゃないんだから、変なこと言うなよ」
でも、正直なところ、この辺を案内してあげるのも悪くない。
提案してみるか。
「お兄ちゃん……まさか本気で考えてる〜? クラスメートがね、すっごくロマンチックなデートスポットを教えてくれたんだよ。教えてあげようか?」
「…………」
「どうやら気になるみたいだね、お兄ちゃん〜。明日、大きいアイスを買ってくれたら教えてあげる」
目を細めながら、その提案を無視するか、それとも真希とのデートのために乗るか迷った。
時々、妹がここまで抜け目ないと少し怖くなる。
「大きいアイスか。よくもまあ、自分の兄貴にそんな交渉ができるな」
「交渉だよ、お兄ちゃん。恋愛アドバイス料♪」
腕を組み、満足そうな笑みを浮かべながら言った。
「信じてよ。真希ちゃんをそこに連れて行ったら、きっと後で感謝するから。クラスメートも絶対外さないって言ってたし」
諦めたようにため息をつき、後ろ頭をかいた。
真希を喜ばせるための切り札が一つ増えるなら、悪くない。まして今は、正式に付き合っているんだから。
「わかった、取引成立だ。明日アイスを買ってやる。その代わり、本当に期待外れじゃないんだろうな」
「やったー! タダのアイスばんざーい!」
それだけで十分すぎるほど嬉しかったらしい。
リビングでぴょんぴょん跳ね回る姿は、きっとキッチンにいる真希からも見えていただろう。
ようやく落ち着くと、俺の耳元まで近づき、まるで極秘情報でも教えるように、その場所の名前を小声で囁いた。
すぐに頭に叩き込んだけど、行き方を聞く前に、キッチンから食欲をそそる香りがふわりと漂い始め、部屋中へ広がっていった。
温かく、ほんのり甘い香りに、スパイスが優しく重なる。その匂いだけで食欲が刺激された。
真夜は小さな猟犬みたいに鼻をひくひくさせながら、その場でぴたりと動きを止めた。
「いい匂い……すごく美味しそう。本当にお姉ちゃん一人で作ったの?」
「だから言っただろ。彼女は何をやらせても上手いんだ」
思わず笑みがこぼれた。
我慢できずにソファから立ち上がり、キッチンへ続く廊下をゆっくり歩いた。
そこから、彼女の後ろ姿が見えた。
髪をまとめ、少し大きめのエプロンを身につけている。
慣れた手つきで調理器具を扱い、小さく鼻歌を口ずさみながら、スープをスプーンですくって味見をしていた。
数秒後、もう一口味を確かめると、満足そうな笑みを浮かべた。
そんなふうに夢中になって、俺の家族のために料理を作っている姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
間違いなく、彼女を選んでよかった。
真希は何をやらせても素晴らしい。
そして、小説の中で描いていたあの「料理のシーン」を、こうして現実に味わえる日が来るなんて思ってもみなかった。
「できたよ、慧翔くん」
満足そうに微笑む彼女を見て、自然と肩の力が抜けた。
横で見ていた真夜でさえ、目を丸くして驚いていた。
「お姉ちゃん、すごくいい匂い。食べてもいい?」
「もちろん。でも夕食だから、みんな揃ってから食べようね」
「父さんと母さんを呼んだほうがいいな。真夜、行ってくれるか?」
真夜は、まるでとんでもないことを言われたみたいな顔で俺を見た。
「お兄ちゃんが行けばいいじゃん。そのほうが早いし。それに、お兄ちゃんのほうが二人の部屋に近いでしょ」
……この子は。
たぶん、言う前からそうするつもりだったんだろう。
真希がこちらを見て、優しくうなずいた。
「行ってきて。真夜ちゃんと私はここで待ってるから」
「……わかったよ」
両親の部屋へ向かいながら、ふと気になって後ろを振り返ると、真希と真夜が肩を寄せ合って何かを囁いていた。まるで、二人きりで話せるタイミングを待っていたかのように。
……なんでもっと早く気づかなかったんだ。
きっと女同士の話だ。
早く呼んでこよう。
ドアをノックすると、すぐに母さんの声が聞こえた。
「は〜い、どうしたの?」
「真希が夕食の準備を終えたよ。あとは二人だけだ」
「あら、もうできたの? 今行くわ」
「うん、待ってる」
そう返して、食堂へ戻った。
でも、二人の姿が視界に入った瞬間、真希は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしていて、その隣では真夜が満面の笑みを浮かべていた。
……なるほど。だから俺を行かせたのか。
近づく前に、そっと壁の陰へ身を隠した。
もしかしたら、何を話しているのか聞こえるかもしれない。
耳を澄ませてみたけど、声が小さすぎて、かすかな囁きしか聞こえなかった。
「ここじゃ何も聞こえないな……何を話してるんだ?」
そう思った次の瞬間、二人が同時にこちらを向いた。
どうやら、最初から隠れているのはバレバレだったらしい。




