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第76話 静かな夜と、紡ぐ物語

 ドアをノックしたけど返事がなく、よく見るとドアは少し開いていた。


 もう少し押し開けて中を覗くと、彼女がいた。


 ベッドに横になって、Jドラマを見ながら、まるで世界で一番感動的なシーンを見ているかのように涙を流していた。


 イヤホンをしていたから、周りの音はもちろん、さっきのノックの音にもまったく気づいていなかった。


「……だから気づかなかったわけだ」


 少し声を大きくして話しかけた。


 すると彼女はすぐに顔を上げて、何かあったのかと言いたげに俺を見た。


「何かあったの、お兄ちゃん?」


「……いや、何でもない。ただ、ここにいるかと思って」


 疑わしそうな目を向けてきたけど、それ以上は何も言わなかった。


 またドラマに視線を戻し、俺のことなんてもう気にも留めていないようだった。


 これ以上用もなかったから、部屋を出て、そっとドアを閉めた。小さく安堵のため息をつく。


 少なくとも、あっちは心配しなくてよさそうだ。


 真夜は完全に自分の世界に入り込んでいた。


 ゆっくりと自分の部屋に戻り、ドアを開けると、真希は出ていく前と同じ場所にまだ座っていた。


 でも、俺が入ってきたのを見ると、スマホを机に置いて、まるで待っていたかのような強い視線を向けてきた。


「で、真夜は何してたの?」


 口調は真面目なままだったけど、目には少しだけ好奇心が浮かんでいた。


「心配することは何もないよ。完全に現実から切り離されて、イヤホンでJドラマを見てた。あんなに泣いてたから、下で何があったかなんて全然気づいてなかったと思う。まして葵さんのことなんて、なおさらだ」


 真希は数秒間、言葉を噛みしめるように沈黙した。


 それから小さくため息をついて、少しだけ表情を和らげた。まだ残っていた緊張が、ようやく解けたようだった。


「そう……じゃあ、本当に二人きりなんだね」


「ああ……ほぼな」


 机に戻って、さっき取りに行ったノートを手にし、彼女の向かいに座った。


 でも、もう部屋の空気は違っていた。


 静かだったけど、それは温かくて落ち着く静けさだった。二人の間で何かが変わったことを実感させるような、そんな静けさだった。


 真希はしばらくじっと俺を見つめていた。


 突然、ゆっくりと近づいてきて、そのまま俺の隣に座った。


 彼女の体温が伝わってくるほど近かった。


「──慧翔くん……」


 そう呟きながら、彼女は少し視線を逸らした。


 その頬はうっすらと桜色に染まっていて、とても可愛かった。


「さっき下でのことだけど……葵さんの前で、あなたの手を握っちゃってごめん。でも……我慢できなかったの」


 彼女がこんなにも素直に嫉妬を認めるなんて思わなくて、胸が少し高鳴った。


「そんなの気にしなくていいよ。むしろ……それだけ俺のことを思ってくれてるってわかって、嬉しかった」


 そう答えると、彼女はまた顔を上げた。


 今度は、その笑顔があまりにも優しくて、何を言おうとしていたのか忘れてしまった。


 俺が反応するより先に、彼女は少し身を寄せてきた。


 柔らかな唇が、一瞬だけ俺の頬に触れた。


 ほんの一瞬だった。


 でも、それだけで俺は完全に固まってしまった。


 彼女はすぐに離れて、いつもの落ち着きを取り戻そうとするように、わざとらしく小さく咳払いをしてから、またスマホを手に取った。


 でも、その頬の赤みが、すべてを物語っていた。


 彼女はまたスマホの画面を素早く指で叩き始めた。


 いつものように、パソコンなんて必要なかった。


「よし、約束は約束。下であなたが頑張ったご褒美だよ……それに、待つって言ってくれたお礼もね」


 無関心を装った口調だったけど、それがかえって可笑しくて、思わず笑ってしまった。


「今は気を散らさないで、そのノートを開いて。小説のアイデアを整理する時間だよ」


 数秒間、自分の頬に触れながら、さっきのことを反芻していた。


 本当に、彼女は俺を翻弄するのが上手い。そしてそれこそが、俺がこんなにも彼女に惹かれた理由の一つでもあった。


「わかった、わかったよ。今やる」


 笑いながらノートを開き、白紙のページをめくってペンを手に取った。


 真希は満足そうにうなずくと、またスマホに集中し始めた。


 心が少し軽くなり、頭もすっきりしたところで、物語の最初のアイデアを整理し始めた。


 何があっても、これからは二人で一緒に書いていくんだ。


 最初にやったのは、彼女が今まで書いてきた内容を、物語の流れに沿って整理することだった。


 でも、それがいつも必要というわけじゃない。


 物語の世界観や、その世界が成り立つまでの出来事を先に描いておかないと、後になって話が理解しづらくなる作品もある。


 そういう手法は、歴史的な背景が重要な意味を持つ作品では特に効果的だ。


 真希も、もうそこまで考えているんだろうか。


 彼女の物語はまだそこまで進んでいないけど、遅かれ早かれ、その時は来るはずだ。


 聞いてみよう。


「物語が始まる前のことって、もう考えてあるのか?」


 一瞬、何を聞かれたのかわからないという顔をした。


 でも、少し考えてから、ようやく俺の意図を理解したようだった。


「ああ……何のことかわかった。うん、もう全部考えてあるよ」


 その瞬間、自分がその部分ではほとんど役に立てないことに気づいて、少し情けなくなった。


 でも、正直、それが当然だった。


 あの物語の生みの親は彼女だ。俺はただ、それを一緒に作り上げる手伝いをしているだけだった。


 でも、だからといって遅れを取るわけにはいかなかった。


 彼女は俺の彼女であって、俺の作家じゃない。


 そこは、俺がちゃんと示さなきゃいけない違いだった。


 きっと彼女も、それを期待している。


「……話してくれないか? 何があったのか。置いていかれたくないんだ。俺も力になりたい」


 彼女は顔を上げて、少し意外そうな表情でこちらを見た。


 それから口元に小さな笑みを浮かべ、ゆっくりとうなずいた。


「じゃあ、あなたの強み、見せてみて」


 間違いなく。


 それは挑発だった。


 そして、不思議とそれが嫌じゃなかった。


「言われなくても、そのつもりだったよ」


 もしかしたら、彼女は俺が同じ結論に辿り着くかどうか試しているのかもしれない。


 それとも、彼女自身もまだ気づいていない何かを見つけてほしいと思っているのかもしれない。


 どちらにせよ……


 彼女が書き続けてきた物語に、何か価値のあるものを加えられるはずだ。

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