第75話 静かな夜と、重なる指先
ドアをノックしたが返事はなく、よく見ると少しだけ開いていた。
もう少し押し開けて中を覗くと、彼女がいた。
ベッドに横になり、Jドラマにどっぷり浸かりながら、まるでこの世で一番感動的な場面でも見ているかのように涙を流していた。
イヤホンをしていたせいで、周りの音はもちろん、さっきのノックの音にさえまったく気づいていなかったらしい。
「……なるほど、気づかなかったわけだ」
少し声を張って話しかけた。
すると彼女はすぐに顔を上げ、何かあったのかと言いたげに俺を見た。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「……いや、何でもない。ただ、ここにいるか確認したかっただけだ」
真夜は少し訝しげな目を向けてきたが、それ以上は何も言わなかった。
すぐにまたドラマへ視線を戻し、俺のことなんてどうでもいいみたいに意識の外へ追いやった。
これ以上ここにいても仕方がなかったので、部屋を出て、そっとドアを閉めた。小さく安堵の息が漏れる。
少なくとも、あっちに関しては心配しなくてよさそうだ。
真夜は完全に自分の世界に入り込んでいた。
ゆっくりと自分の部屋に戻り、ドアを開けると、真希は出ていく前と同じ場所にまだ座っていた。
だが、俺が戻ってきたのを見るや、スマホを机に置き、まるで報告を待っていたかのような強い視線を向けてきた。
「それで、真夜は何してたの?」
口調は相変わらず真面目だったが、その目にはわずかな好奇心が宿っていた。
「心配するようなことは何もない。イヤホンつけてJドラマ見ながら、完全に現実から切り離されてた。あれだけ泣いてたんだ、下で何があったかなんて全然気づいてないと思う。まして葵さんのことなんて、なおさらだ」
真希は数秒間、俺の言葉を噛みしめるように黙り込んだ。
それから小さく息をついて、ほんの少しだけ表情を和らげた。葵さんの来訪で残っていた最後の緊張が、ようやく完全にほどけたようだった。
「そう……じゃあ、本当に二人きりなんだね」
「ああ……ほぼな」
俺は机に戻り、さっき取りに行ったノートを手にして、彼女の向かいに座った。
でも、もう部屋の空気はさっきまでとは違っていた。
静かなのに気まずさはなく、むしろ不思議なくらい温かい。俺たちの間で何かが確かに変わったのだと、はっきり実感させるような静けさだった。
真希はしばらくじっと俺を見つめていた。
そして不意に、床の上を少しずつこちらへ寄ってきて、そのまま俺の隣に腰を下ろした。
体温が伝わってくるほど近かった。
「──慧翔くん……」
そう呟きながら、彼女は少しだけ視線を逸らした。
頬はうっすらと桜色に染まっていて、どうしようもなく可愛かった。
「さっき下でのことだけど……葵さんの前で、あんなふうにあなたの手を握っちゃってごめん。でも……我慢できなかったの」
彼女がこんなにも素直に嫉妬を認めるなんて思わなくて、胸が少し高鳴った。
「そんなの気にしなくていいよ。むしろ……それだけ俺のことを大事に思ってくれてるってわかって、嬉しかった」
そう言うと、彼女はもう一度こちらを見た。
今度の笑顔はあまりにも優しくて、何を言おうとしていたのか一瞬で吹き飛んでしまった。
俺が反応するより先に、彼女はすっと身を寄せてきた。
柔らかな唇が、ほんの一瞬だけ俺の頬に触れた。
本当に、一瞬だった。
それでも十分すぎるほど現実感があって、俺はその場で完全に固まった。
彼女はすぐに離れると、いつもの落ち着きを取り戻そうとするみたいに、わざとらしく小さく咳払いをしてから、またスマホを手に取った。
けれど、その頬の赤さがすべてを物語っていた。
彼女はまだ、スマホの画面を素早く指で叩き続けていた。
彼女にパソコンなんて必要なかった。
「よし、約束は約束。さっき下で頑張ったご褒美……それと、待つって言ってくれたお礼だよ」
素っ気ないふりをした口調だったけど、だからこそ余計に笑えてしまった。
「今は気を散らさないで、そのノートを開いて。小説のアイデアを整理する時間だよ」
数秒のあいだ、自分の頬に触れながら、さっきのことを反芻していた。
本当に、彼女は俺を翻弄するのが上手い。
そしてそれこそが、俺がこんなにも彼女に惹かれた理由の一つでもあった。
「わかった、わかったよ。今やる」
笑いながら、ノートを白紙のページで開き、ペンを手に取った。
真希は満足そうにうなずいて、またスマホに意識を戻した。
心が少し軽くなり、頭もすっきりしたところで、物語の最初のアイデアを整理し始めた。
何があっても、これからは二人で一緒に書いていくんだ。
最初にやったのは、彼女がこれまで書いてきたものを、物語の流れに沿って整理することだった。
ただ、それがいつも必要になるわけじゃない。
物語によっては、世界の成り立ちや、その世界に至るまでの出来事を先に示しておかないと、後になって意味が伝わりにくくなるものもある。
特に、歴史的な背景が大きな意味を持つ作品では、かなり効果的なやり方だ。
真希も、もうそういうところまで考えているんだろうか。
彼女の物語はまだそこまで進んでいないけど、遅かれ早かれ、その段階には辿り着くはずだ。
聞いてみるか。
「物語が始まる前に何があったのか、もう考えてるのか?」
一瞬、何を言われたのかわからないという顔をした。
でも、少し考えてから、すぐに俺の意図を理解したらしい。
「ああ……何のことかはわかった。うん、もうちゃんと考えてあるよ」
その瞬間、自分がその部分ではほとんど役に立てないんだと気づいて、少し情けなくなった。
でも、考えてみればそれも当然だった。
あの物語を生み出したのは彼女だ。
俺はただ、それを一緒に形にしていくのを手伝っているだけにすぎない。
けれど、だからといって置いていかれるわけにはいかなかった。
彼女は俺の彼女であって、俺の作家じゃない。
そこは、俺がちゃんと示さなきゃいけない違いだった。
きっと彼女も、それを望んでいる。
「……話してくれないか? 何があったのか。置いていかれたくないんだ。俺も、ちゃんと手伝いたい」
彼女は顔を上げて、予想もしなかったような好奇心のこもった目でこちらを見た。
それから、口元に小さな笑みを浮かべて、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、あなたの強みを見せてみて」
間違いない。
それは挑発だった。
そして、不思議とそれが嫌じゃなかった。
「言われなくても、そのつもりだったよ」
もしかしたら、彼女は俺が同じ結論に辿り着けるかどうかを試しているのかもしれない。
あるいは、彼女自身もまだ気づいていない何かを、俺に見つけてほしいと思っているのかもしれない。
どちらにせよ……
彼女が書き続けてきた物語に、何か価値のあるものを加えられるはずだ。




