第73話 時間をかけて、二人でほどいて…
母さんが、あのもうすっかり見慣れた笑顔でこちらを見た。
それから真希に視線を向ける。彼女は完全に固まっていて、さっきのやり取りをまだ処理しきれていないようだった。
数秒後、母さんはまた俺を見た。
やるのかやらないのか、見定めるような目だった。
視線が、全部こっちに集まっていた。
真夜でさえ、面白がるような笑みを浮かべながら、俺たちの反応を待っていた。
「お兄ちゃん、何をすべきかわかってるよね〜」
恥ずかしい……。
でも、真希のこっちを見る目を見ていると、彼女もそれを望んでいるように思えた。
「あ〜ん」
一瞬、彼女の目が嬉しそうに輝いたかと思えば、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。
何も言わず、小さく切った肉を箸でつまむと、ほとんど平然を装うように俺の口元まで運んできた。
俺は口を開けて、それを素直に受け入れた。
噛みしめると、味がゆっくりと口の中に広がっていく。
肉は絶妙な焼き加減で、味付けも一口ごとにしっかりと旨さを引き立てていた。
間違いない。
「美味しい……」
真希の唇に、小さな笑みが浮かんだ。
「私が作ったの……」
「じゃあ、すごいな。お前がそんなに料理上手だとは思わなかった」
「……ありがとう。いっぱい食べてね。今日はたくさん書くんだから」
「……え?」
休みの間に書く約束なんてした覚えはない。
「そうだよ、お兄ちゃん。私も君たちが書いてるもの、読んでみたいな。もしかしたら、それでプロになれるかもしれないしね。ふふふ〜〜」
まさかそんな提案をされるとは思っていなかった。
でも、よく考えれば悪くない話だった。
彼女の小説が早く進むなら、それに越したことはない。
「わかった。今度こそ、俺を驚かせてみろよ」
彼女は、隠しきれない誇らしさを滲ませながら微笑んだ。
「見ててよ、慧翔くん♡」
* * *
朝ごはんを食べ終えると、真希は俺と一緒に部屋へ戻った。
今回、彼女が持ってきたのはスマホだけだった。
たしか、書くのに必要なのはそれだけだったはずだ。
真希は物語を書き始めると、それに完全に没頭できるタイプだった。
そして不思議なことに、それもまた真希の好きなところの一つだった。
「慧翔くん、ここで一度、今までの私の小説のあらすじをまとめてみて」
あまりにも自然な口調だったせいで、まるでアシスタントに仕事を振っているみたいに聞こえた。
別に嫌じゃない。
難しいのは、それをどう言葉にするかだった。
「えっと……物語自体は最初に決めた通り、君が書いてる。雨宮と俺はただ、君が別の書き方を学べるように手伝ってるだけだ」
「正直……思ってたよりずっと難しかった。二人の視点を切り替えながら三人称で書くなんて、こんなに難しいとは思わなかった」
学んだことは、それだけじゃなかった。
でも、まとめるなら、たぶんそれが一番大きい。
身につけるのは難しいけど、一度わかれば、書くこと自体はずっと自然になる。
「それに、構成もかなり良くなった。読者にもきっと気に入ってもらえると思う」
「わかってる……でも、まだあなたが章を直すほど上手くは書けないの。もっと……もっと教えてほしい」
「……本当に俺がそんなに上手く書けると思ってるのか?」
「……まあね」
数秒考え込んだあと、小さく笑った。
「やっぱり前言撤回。へへ」
ひどいな……。
でも、彼女の言う通りでもあった。
二人がまったく同じ物語を思い描いたり、同じように展開させたりできるはずがない。
それぞれがまったく違う経験をもとに書いているんだから。
「真希、もう一度あらすじを説明してくれ。どこへ向かおうとしてるのか、もっとちゃんと理解したいんだ」
彼女は訝しげにこちらを見てから、小さくため息をついた。
「すごく単純よ。ずっと自由になりたいと思っていた女の子の話。ある日、家を逃げ出して、森の近くで三人家族に出会って、その家に養子として迎えられるの」
そのあらすじを聞きながら、真希の人生とあまりにも多くの共通点があることに気づかずにはいられなかった。
あの物語の中には、彼女にしか書けない感情があった。
それが、きっと二人の間にある一番大きな違いだった。
真希は、そのすべてを実際に経験してきた。
俺は違う。
どれだけ一緒に過ごしても、まだお互いに知らないことはたくさんある。
それでも、今は付き合っている。これから、もっと深く知っていけるはずだ。
「ねえ、慧翔くん。他に何か言いたいことある?」
「……うん、あるけど。でも、説明するのは得意じゃないんだ。もう知ってると思ってたけど」
真希はため息をついて、まるで当然みたいに、そっと俺の頭を軽く叩いた。
「バカ。そのくらいちゃんとわかってるよ。ただ、少しは上達してるのか確かめたかっただけ」
おっ……
そういう顔も可愛いな。
「膨れっ面も可愛いよ。そういう顔、なんか面白いし」
まるで急に落ち着きを失ったみたいに、真希は顔を真っ赤にして、慌てて俺から離れた。
そこまでわかりやすく反応するとは思わなかった。
でも、正直……嫌じゃなかった。
「何笑ってるのよ! バカ、ちゃんと練習しなさいよ」
「もし練習しなかったら?」
彼女の目が少し見開かれた。
挑発されるのが嫌いなのは知っていた。
だからこそ、どう反応するのか気になった。
数秒後、彼女の唇に小さないたずらっぽい笑みが浮かんだ。
ゆっくりと近づいてきて、俺の前に立つ。
「今はあなたが彼氏だってこと、忘れないでね」
その笑みが、もう少しだけ挑戦的になる。
「もっとひどい罰だってあるんだから」
「え?」
意味がわからなくて、彼女を見た。
「どういう意味?」
すぐには答えず、彼女は唇を俺の耳元に寄せて、低い声で囁いた。
「それをうまく利用できるってこと。たとえば……」
突然、彼女はドアの方に向き直った。
両手を口元に添えて、誰かを呼ぶみたいに。
「真夜ちゃん! 慧翔くんが……!」
言い終わる前に、俺は彼女に駆け寄って、両手でその口を塞いだ。
「わかった、わかったよ。やるよ。……お前、小説のことになると本当に頭が回るな」
真希は満足そうに小さく笑った。
俺が彼女の考えを受け入れたから嬉しいのか、それともこんなにあっさり折れたことに満足しているのか、よくわからなかった。
誇らしげな笑みを浮かべながら、彼女はさりげなくピースサインを作った。
それから、また耳元に近づいてくる。
「もしすごく頑張ったら……頬にキスしてあげてもいいよ」
「唇じゃダメか?」
彼女の表情が、またあの落ち着いたものに戻った。
「急ぐのはよくないと思う。まだ先は長いんだし……それでもいい?」
不安そうに頼んでいるわけじゃなかった。
むしろ、約束みたいに聞こえた。
「……お前がそうしたいなら……待つよ。でも、どれくらい?」
彼女はもう一度微笑んだ。
今度は、ずっと温かい笑顔だった。
「その時が来たら……私の方から動くから」
その言葉を聞いて、静かにうなずいた。
彼女の言う通りだった。
関係を急ぐ必要なんてない。
まだまだお互いを知っていく時間はあるし、自分たちのペースで進めばいい。
「わかった」
「じゃあ、待ってて」




