第69話 待ち続けた果てに
階下に降りると、一葉さんと誠一郎さんの姿がもうないことに気づいた。
しばらく辺りを見回したけど、二人の姿はどこにもなかった。
「おばあちゃんのところに遊びに行ったよ。夜になったら戻るって。私たちももうお祭りに行かないと」
確かにそうだった。
もう午後六時半を過ぎていたから、花祭りが終わる頃には戻ってくるだろう。
「さあ、私たちもお祭りに行く時間だよ」
真夜ちゃんの言葉に、緊張はさらに高まった。
一日中思い描いていた瞬間まで、あと一時間もなかった。
ドアを開けると、修善寺町の夕暮れのひんやりとした空気が、湿った草木の香りと、祭りの始まりを告げる遠くの太鼓の音とともに迎えてくれた。
下駄が舗道の上で軽やかな音を立てる。
まだ歩き慣れていなかったから、いつもよりずっと小さく慎重な足取りになっていた。
「気をつけてね、お姉ちゃん。川へ続く道は少し下り坂になってるから」
真夜ちゃんは数メートル先を、何年も浴衣を着慣れているかのような自然な足取りで歩きながら声をかけた。
「着く前に転んじゃだめだよ!」
「だ、大丈夫……ありがとう」
地面から目を離さずに答えた。
さあ、集中しなきゃ、真希。
一歩ずつ。
一葉さんと真夜ちゃんがかけてくれた努力を無駄にはできない。
その時、誰かが隣に並び、私の歩幅に合わせて歩き始めた。
横目で見上げる。
慧翔くんだった。
紺色の浴衣が彼によく似合っていて、街灯が灯り始めた橙色の光の中では、いつもより背が高く、ずっと大人びて見えた。
「よかったら……腕につかまっていいよ」
後頭部をかきながら、目を合わせないまま小さく呟いた。
「転ばないように。この町の道は暗くなるとちょっと危ないから」
心臓が跳ねた。
顔が熱くなるのを感じた。その熱は、家々に飾られた提灯の灯りみたいに温かかった。
「ありがとう、慧翔くん……お言葉に甘えるね」
そっと彼の腕に手を添えた。
浴衣越しでも、彼の腕の張りと、かすかな震えが伝わってきた。
彼も緊張してる。
そう思うと、自然と口元がほころんだ。
通り過ぎる人たちの視線は少し恥ずかしかったけど、それ以上に、彼の方から言ってくれたことが嬉しかった。
慧翔くんの歩き方は少しぎこちなかった。
でも、不思議と彼が緊張しているのを見ると、私の方は少し落ち着けた。
一瞬だけ、そっと彼の肩に頭を預けた。
ほんの一瞬だけ。
それだけで胸の鼓動はさらに速くなった。
数メートル先で、真夜ちゃんが振り返った。
私たちを見つけると、その目がいつものいたずらっぽい光を宿した。
でも今回は何も言わなかった。
ただ、共犯者のような笑みを浮かべると、また先を歩き始めた。
川岸に近づくにつれ、水のせせらぎは人々の賑わいにかき消されていった。
花祭りはまさに最高潮を迎えていた。
屋台が道の両側に並び、焼き鳥、たこ焼き、りんご飴の香りが漂っていた。
赤と金の提灯が川面に映り、水面を温かな光で染めていた。
一瞬、その景色は私たちが一緒に書いている小説から飛び出してきたように思えた。
「すごい人だね、今日!」
真夜ちゃんが橋のたもとで立ち止まって声を上げた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、まずは何か食べようよ! お腹空いた!」
慧翔くんがうなずいた。
でも、人混みへ入る前に、ほとんど反射的に彼の手が私の手を探した。
指先がそっと絡み合う。
「離れないで、真希」
その声は低く、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「人が多すぎる。はぐれたら、もう会えなくなるかもしれない」
「うん……離れないよ」
彼の手を少し強く握り返した。
まだ少し冷たかった。
それでも、その温もりは不思議なくらい安心できた。
顔を上げると、祭りの灯りの向こうに、最初の星が姿を見せ始めていた。
時間はどんどん過ぎていった。
そして、一歩進むたびに、ずっと待ち望んでいた瞬間が近づいているのを感じた。
「見て! りんご飴とチョコバナナもあるよ!」
真夜ちゃんは驚くほど軽やかな足取りで人混みをすり抜けていった。
「お兄ちゃん、今日は奢ってよね!」
「はいはい……そんな大きな声出さなくてもいいだろ。誰も逃げたりしないから」
呆れたようにため息をついたけど、口元に浮かんだ微かな笑みは、彼女を甘やかすのも悪くないと思っていることを物語っていた。
屋台に近づいた。
真夜ちゃんが目を輝かせながらお菓子を眺めている間、慧翔くんが少しこちらを向いた。
提灯の赤い灯りが彼の顔の片側を照らし、不思議なくらい穏やかな表情に見えた。
「何か欲しいものある? 真希」
その申し出を断りたくなくて、ゆっくりと屋台を見渡し、目に留まったものを探した。
「お団子でいいよ……ありがとう」
彼が今も私のことを気にかけてくれている。
そう思うだけで、胸の奥がくすぐったくなった。
「はい、どうぞ」
慧翔くんが団子を渡してくれた。真夜ちゃんはもう、買ってもらったりんご飴を嬉しそうに頬張っていた。
「ありがとう、慧翔くん」
花祭りの賑わいの中を歩き続けた。焼きたての食べ物の香りが漂い、下駄の音が人々の笑い声や話し声に溶け込んでいた。
人が多く、何度も人にぶつかりそうになりながら歩いた。
「真夜ちゃん?!」
突然、女性の声が私たちの足を止めた。
振り返ると、色とりどりの浴衣を着た三人の女の子が、驚いた表情でこちらへ駆け寄ってきた。
「本当に真夜ちゃんだ! お祭りに来るなんて聞いてなかったよ!」
そのうちの一人が、ためらいもなく彼女の腕を掴んだ。
「部活のみんながゲームコーナーにいるんだよ! 一緒に行こう!」
「え? でも、お兄ちゃんたちと……」
真夜ちゃんは一瞬迷った。
私たちを見た。
そして微笑んだ。
また何か思いついた時の、あの笑顔だった。
ゆっくりと私の隣まで来ると、反応する間もなく耳元で囁いた。
「頑張ってね、お姉ちゃん。きっと必要な時が来るから」
まさか……
真夜ちゃん、そんなことまで……
その目は隠しきれないいたずらっぽさで輝いていた。
「うん、わかった。でも少しだけだよ」
それから、私たちにも聞こえるように声を上げた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん! 二人は先に達磨山の展望台に行ってみたら? 今日の景色、上からだとすごく綺麗なんだって。私、後で追いかけるから!」
慧翔くんが返事をする前に、三人の女の子は真夜ちゃんを人混みの中へ引っ張っていった。
あっという間に、提灯と屋台の間へ消えていった。
こうして、私たちは完全に二人きりになってしまった。
残された沈黙は、想像していたよりずっと重かった。
太鼓の音も、人々の話し声も、その緊張を和らげてはくれなかった。
真夜ちゃんがいなくなると、二人とも何を話せばいいのかわからないようだった。
慧翔くんは目をそらし、後頭部をかいた。見るからに緊張していた。
顎は強張り、視線は地面に落ちたままだった。何かに思い悩んでいるようだった。
居心地が悪そうだった。
そして、その表情が胸を締め付けた。
その時、何かに気づいた。
いつの間にか、彼の手を離してしまっていた。
どうして……?
温泉の後で真夜ちゃんが言ってくれた言葉を思い出した。
もう後戻りはできなかった。
深く息を吸い、できる限りの勇気を振り絞って、もう一度彼の手を探し、指を絡めた。
彼は少し驚いたようだった。
「大丈夫……?」
戸惑ったように尋ねた。
「まだ浴衣で歩くの慣れてないの?」
ゆっくりと首を振った。
「ただ……手を繋いでいたいだけ」
また頬が熱くなるのがわかった。
「えっと……それに、歩く時も安心できるし」
慧翔くんは黙った。
耳までゆっくり赤くなっていくのがわかった。
それだけで、少し自信が湧いた。
手を離さないまま、達磨山へ続く道を登り始めた。
祭りの灯りが少しずつ遠ざかり、喧騒は遠くのざわめきへと変わっていった。
小道は木々の間を縫うように続き、小さな石灯籠だけが道を照らしていた。
それでも、山は夜の闇に包まれ、どこまでも広く感じられた。
まだ慧翔くんの手を握っていた。
絡めた指の温もりは、心を落ち着かせてくれるはずだった。
それなのに、不安はどんどん膨らんでいった。
彼は前を向いたまま、何も言わず、しっかりとした、それでいてどこかぎこちない足取りで歩いていた。
一段上がるたびに、二人の距離まで離れていくような気がした。
「慧翔くん……疲れた?」
「いや。全然」
ほとんど間を置かずに答えた。
でも、その声は……
どこか冷たく聞こえた。
振り返って私を見ようともしなかった。
ただ、山へと続く石段だけを見つめていた。
その返事が、胸に小さな棘のように刺さった。
真夜ちゃんが、あんなに自信満々の笑顔で私たちを二人きりにしてくれたことを思い出した。
家を出る前に決めたことも思い出した。
今日……
今日こそ、気持ちを伝えようと思っていた。
でも、祭りが始まってから初めて、本当に今日でよかったのかと思い始めた。
隠し続けてきた気持ちを全部伝えようと、この山を登ってきた。でも、彼があんなにも距離を置いて、どこか自分の殻に閉じこもっているように見えると、その決意が少しずつ揺らぎ始めた。
本当に私と一緒にいたいと思っているんだろうか?
それとも、真夜ちゃんに頼まれたから、仕方なく来てくれただけなんじゃないだろうか?
私が知らなかったのは、そのほんの数センチ先で、慧翔くんの頭の中が完全に混乱していたということだった。
彼は何度も何度も、私の髪飾りや、提灯の灯りに照らされた浴衣の姿、それに真夜ちゃんと一葉さんが丁寧に整えてくれた髪型へと視線を向けていた。
彼の頬は真っ赤だった。
手もかすかに震えていた。
それを見て、もう待っていられないと思った。
「何か悩み事があるの? 私を見て」
慧翔くんは一瞬顔を上げた。
でも答える代わりに、目の前に広がる景色へ視線を向けた。
「うん……でも、その前にこれを見てほしい」
彼の視線の先を追った。
そこからは、明かりに照らされた修善寺町が一望できた。祭りの灯りが川辺で輝き、まるで星が地上へ降り注いだようだった。
「綺麗……」
「ああ……でも、俺にとっては……君の方がずっと綺麗だ」
彼の声はかすれるほど小さかった。
「世界で……一番綺麗だ」
ああ……
そんなこと言われたら……
本当におかしくなりそう……
自然と口元が緩んだ。
でも、返事をする前に、彼の表情が再び強張った。
「なあ、真希……葵さんに言われたんだ」
「え?」
「君は……俺のことをただの友達としか見てないって」
時間が止まったような気がした。
葵さんが……そんなことを言ったの?
じゃあ、彼はその言葉を信じたんだ。
自分はそれ以上には見てもらえないと信じてしまったんだ。
胸がぎゅっと締め付けられた。
嫌だった。
こんな誤解に負けたくなかった。
この想いを、もう隠し続けたくなかった。
押し殺そうとすればするほど、その想いは胸の中で膨らんでいった。
もう、何もかも隠し続けることはできなかった。
「慧翔くん……」
彼が再び私を見た。
その瞬間、頭上で大きな音が響いた。
最初の花火が、夜空を色とりどりの光で染め上げた。
でも、私は彼から目を離さなかった。
花火は後でいくらでも見られる。
慧翔くんは、今しかない。
勇気がまた逃げてしまう前に、一歩踏み出し、彼の浴衣を掴み、もう何も考えないと決めて――
キスをした。
もう隠せなかった。
賭けるしかなかった。
そして、私はその一歩を踏み出した。
一瞬、彼の体が強張った。
それから、どこか照れくさそうに、彼の片方の手が私の腰をそっと抱き寄せた。また一つ、花火が頭上で夜空を震わせた。
離れなかった。
それどころか、もっと強く彼にしがみついた。
やがて、彼の体からゆっくりと力が抜けていくのを感じた。
それから、そっと唇を離した。
花火はまだ頭上で咲き続け、戸惑いに満ちた彼の表情を照らしていた。
そっと微笑んだ。
「慧翔くん……私はあなたを友達だなんて思ってない」
深く息を吸った。
「あなたの笑顔が好き。
あなたの話し方が好き。
私の小説を直してくれるところが好き。
何かを考えながらぼんやりしてるところが好き。
私に優しくしてくれるところが好き。
緊張してるあなたも好き。
怒ってるあなたも好き。
それに、私のことも……周りの人のことも、いつも気にかけてくれるあなたが好き。」
心臓が飛び出しそうだった。
「全部、大好きなの」
彼の目をまっすぐ見つめた。
「だから……」
最後にもう一度息を吸った。
「……だから、慧翔くんのことが好きです。」




