第65話 朝の出会いと、譲れないもの
空は淡い青にぼんやりと染まり、町は山から下りてくる薄い霧に包まれ、どこか幻想的な静けさに沈んでいた。
真夜ちゃんがゆっくりとジョギングを始め、私も隣に並んでペースを合わせた。
朝の静けさを破るのは、私たちのスニーカーがアスファルトを蹴る音と、桂川のせせらぎだけだった。
数分も経たないうちに、町の象徴でもある赤い木造の橋を渡った。
下を見下ろした。
透き通った水が岩にぶつかり、温泉から立ち上るかすかな湯気が水面の上を漂っていた。
美しい景色だった。
慣れ親しんだアスファルトのジャングルとはまったく違っていた。
「ペースはどう? お姉ちゃん、大丈夫?」
真夜ちゃんが息一つ乱さずに尋ねた。昨夜のいたずらっぽい表情とは違う、さわやかな笑顔をこちらに向けながら。
「うん、大丈夫……ここの空気は本当に澄んでるね。呼吸がしやすい」
上着を整えながら答えた。
体にぴったり張り付くわけではないけれど、走っていると自分の体を意識せずにはいられなかった。
それでも、彼女と一緒に走ると、不思議と落ち着く気がした。
「それが修善寺の一番いいところだよ!」
彼女は誇らしげに言った。
「見て。この坂を上ると、竹林の近くを通るんだ。この時間は観光客がいないから、私たちだけで景色を独り占めできるよ」
彼女の案内を信じることにした。
進むにつれて、道は徐々に傾斜を増し、足にもより力が必要になった。
心臓が速く脈打ち始める。
呼吸を整え、運動に集中した。
完璧な気分転換だった。
しばらくの間、小説の修正のことも、ソファでのあの恥ずかしいやり取りも、昨夜ほとんど全てを台無しにしかけたあの「好きだ」の一言も忘れることができた。
やがて高台に着くと、景色がまた変わった。
道の両側には高い青竹が空へ向かって伸び、差し込み始めた朝日を細い金色の光へと変えていた。
真夜ちゃんがペースを落とし、二人とも歩きながら息を整えた。
風が竹の間を優しく吹き抜け、葉が擦れ合う音が響いた。
「すごいでしょ?」
真夜ちゃんがささやいた。道の真ん中で立ち止まり、両手を腰に当てて深呼吸をする。
「うん……綺麗だね」
額の汗を拭いながら答えた。
本当に昔話の中から飛び出してきたような風景だった。
真夜ちゃんが私の方を向く。
すると一瞬で、眠っていると思っていたあのいたずらっぽい輝きが再び彼女の目に灯った。
「ところで、お姉ちゃん……せっかく二人きりだし、お兄ちゃんはまだ家でぐっすり寝てるだろうから、昨日私が二人きりにした後、何があったのか教えてほしいな」
え……ちょっと待って?
ああ、そうだった。
温泉から戻った後……
それを話すのは、あまりいい考えじゃない気がする。
それに……
「何もなかったよ。ただ昨日書いたものを見せて……」
「もう、もう。本当のこと教えてよ。気になるんだって」
「何もなかったって言ったでしょ。実際、今日はやってみたいことがあるんだ」
「まあ、安心した。もう何か仕掛けようか考え始めてたところだったから」
真夜ちゃんにそんなことを言われると、不安になる。
でも正直なところ、彼女がどんなことを考えているのか知りたくはなかった。
それに、その話はもう考えたくなかった。
まだ昨夜の浴衣の件で疲れていた。
昨夜も、朝に書いた原稿を編集していて遅くまで起きていた。
でも、その価値はあったと思う。
* * *
しばらくして、家に戻ることにした。
少なくとも、真夜ちゃんにはそう言った。
先に帰っていてほしいと頼むと、彼女は何も疑わずに一人で帰っていった。
実は、家からそれほど離れていなかった。
まだ慣れていない場所で迷いたくなかったからだ。
戻る前にストレッチでもしようと思った。
道端の小さな木製のベンチに腰を下ろし、脚を伸ばし始めた。
「あら、真希さんじゃない」
驚いたような女性の声が後ろから聞こえた。
振り返ると、そこに彼女がいた。
「葵さん。まさか……あなたも運動してたのね」
彼女は笑顔でこちらを見て、元気よくうなずいた。
どうやら昨日より元気そうだった。もしかすると、慧翔くんと私があの話をしたことで、彼女も少し安心できたのかもしれない。
「うん。実はいつもやってるんだ。どうやら私だけじゃなかったみたいだね」
彼女は笑いながら答えた。
「えっと……体を動かすのが好きじゃない人なんていないでしょ?」
「うん、確かにそうかもね……」
彼女の声が次第に小さくなった。
そして少し間を置いてから、また話し始めた。
「ところで……あなたたちが付き合ってないなら……二人は友達なの?」
いろいろ話すことはあったはずなのに、彼女はあえてその話題を選んだ。
でも……
そうだと思う。
私たちは友達だと思う。
「うん。どうして?」
葵さんはしばらくうつむいた。
まるで、とても繊細な話題を切り出そうとしているかのように。
それから私の隣に座り、指をいじり始めた。
それは、長い間胸の奥にしまっていたことを打ち明けようとしている人の仕草だった。
「話すけど、彼には言わないって約束してほしいの。お願い……」
「わかった。言わないよ。私を信じて」
「ありがとう」
彼女は小さく息を吸ってから続けた。
「実はね……私、慧翔くんのことが好きなの」
わかっていた。
少なくとも、心のどこかでは最初からそう感じていた。
それでも……
間違っていてほしかった。
だって、その言葉を聞くのは思っていたよりずっと苦しかったから。
「中学の頃から好きなんだ」
彼女の声が柔らかくなった。
「友達に相談したら、みんな協力してくれた。何度も彼に気持ちを伝えろって背中を押してくれたの」
葵さんは自分の手を見下ろした。
「でも、できなかった」
「葵さん……」
彼女の表情が少し曇った。
まるで時間を戻して、今でも後悔している選択をやり直したいと願っているかのようだった。
でも、もうそれはできない。
実際、慧翔くんは彼女に直接会うまで、彼女の話を一度もしたことがなかった。
それに腹を立てるべきなのか、それとも気にしないべきなのか、わからなかった。
彼にも彼なりの理由があるのかもしれない。
「どうして……?」
彼女をまっすぐ見た。
「どうして私にそんなことを話すの?」
そして、もっと大事なのは……
どうして私なの?
葵さんは数秒黙り込んでから答えた。
「えっと……助けてほしいの」
「それはできない」
その言葉は、もっと柔らかく言おうとする前に口から出てしまった。
彼女をじっと見つめた。
目をそらさずに。
「私も彼のことが好きだから」
初めて誰かの前で声に出して言った。
言い訳もせず。
隠れもせず。
「彼は私の心がどうしても選んでしまった人。一緒にいると一番落ち着く人」
ゆっくりと息を吸った。
「だから助けられない」
葵さんは一瞬戸惑ったようだった。
でも、すぐに微笑んだ。
優しい微笑みだった。
少なくとも、そう見えた。
「そうだろうと思ってた。あなたが自己紹介した時の様子を見ればわかったから。すごく自信がありそうだったし」
「.........わかってる」
一瞬うつむいた。
「私もわかってる。これから先も、ちゃんとわかってるつもり」
「そう……」
葵さんはゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、それがあなたの答えなんだね」
数秒間、沈黙が流れた。
それから彼女は付け加えた。
「わかった。どちらを選ぶのか、見届けさせてもらうね」
うなずいた。
彼女はそのまま去っていった。
別れの挨拶もなく。
何も言わずに。
ただ、あの最後の言葉だけを残して。
彼女の姿が木々の間に消えるまで見送った。
今日こそやらなきゃ。
彼女みたいに遅すぎるなんてことにはなりたくない。
同じように後悔したくない。
今は……
まず運動を終わらせなきゃ。
* * *




