第60話 家族みたいな空気
その言葉が、葵さんの中で何かを完全に壊してしまった気がした。
でも、嘘は言っていない。
それが事実だった。
数秒の間、食堂は静まり返った。
最初に反応したのは真夜ちゃんだった。
「えっ、それって将来結婚するってこと!? いつの間にそんなことになってたの!?」
あまりにも素直な反応で、思わず笑みがこぼれそうになる。
一方で、慧翔くんのご両親はすぐには動かなかった。
怒っているわけじゃない。
ただ、驚いている。
それも、かなり。
しばらくして、一葉さんがふっと笑った。
そして、今までで一番優しい笑顔を向けてくる。
「おめでとう、二人とも」
私たちが反応するより先に、一葉さんは嬉しそうに抱きついてきた。
慧翔くんも私も、完全に面食らってしまう。
「さ、詳しく聞かせてちょうだい」
少し身体を離しながら、一葉さんが笑う。
「どうしてこうなったの?」
そして、小さく声を潜めた。
「……だって、あなたたち本当はまだ付き合ってないんでしょ?」
そのまま席へ戻り、説明を待つ。
「えっと……」
私は小さく息を吸った。
「半分くらい、お二人のせいです」
一斉に視線が集まる。
「私の家、ちょっと特殊な決まりがあって……気づいたら、慧翔くんと私が全部条件を満たしてたんです」
一葉さんはすぐに察したようだった。
隣では慧翔くんが気まずそうに頬をかいている。
「俺は……真希を守るって約束して、一緒に住むことになって、その……いろいろあって」
結局、全部話した。
偽装恋人のことも含めて。
それを聞いて、葵さんは目に見えて少し安心したようだった。
ほんの少しだけ。
その間、一葉さんは誠一郎さんの耳元で何かを囁いていた。
誠一郎さんがわずかに眉を上げる。
それから数秒後、二人は意味ありげに微笑み合った。
まるで、私たちだけが知らない何かを理解しているみたいに。
……何を考えてるんだろう。
「つまり……」
誠一郎さんがようやく口を開く。
「正式に付き合ってはいない。でも、婚約自体はお互い受け入れてるってことか」
慧翔くんと私は同時に頷いた。
「それって、ほとんど――」
「真夜」
言い切る前に、一葉さんが真夜ちゃんの口を軽く塞いだ。
「まだダメ」
そのまま耳元で何かを囁く。
すると真夜ちゃんの目が一瞬で輝いた。
それが逆に怖い。
「さてと」
一葉さんが何事もなかったように笑う。
「話は変わるけど、慧翔。真希ちゃんに日枝神社のお祭りのこと、もう話した?」
「お祭り?」
私はぱちりと瞬きをした。
「春祭りよ」
一葉さんが楽しそうに説明する。
「夜になると屋台がいっぱい並ぶの。それで、みんな川辺を歩きながらお祭りを楽しむのが恒例なのよ。この町ではかなり大きな行事なんだから」
「すごく楽しそうですね」
「楽しいぞ」
今度は慧翔くんが口を開いた。
「よかったら、明日一緒に行かないか?」
「行きたいですけど……」
私はスーツケースへ目を向ける。
「浴衣を持ってきてないんです。それに、着いたばっかりでまだ荷物も片づけてなくて」
「大丈夫だよ、真希お姉ちゃん!」
真夜ちゃんがすぐに元気よく手を挙げた。
「お祭りは明日の夜だし! それに、お母さんと一緒に用意したプレゼント、まだ渡してないもん!」
「楽しみにしてるね」
……でも、真夜ちゃんのことだから、だいたい予想はついていた。
「あ、そうだ」
一葉さんが微笑みながら私を指差す。
「真希ちゃん、もうそんなに気を張らなくていいのよ? もっと楽にして、いつものあなたでいなさい」
私はしばらく言葉を失った。
たぶん——
彼女の言う通りだったから。
今まで私は、ちゃんと作り上げた自分しか見せてこなかった。
でも、いつか本当に認めてもらいたいなら——
本当の私も知ってほしい。
「わかりました」
私は小さく頷いた。
「実は、私もそうしようと思ってたんです」
ゆっくり息を吸う。
そして、食事の間ずっと浮かべていた作り笑いをやめた。
表情が、いつもの自分に戻る。
慧翔くんが毎日見ている、あの顔に。
数秒間、みんなが驚いたように私を見つめていた。
「……そう思うよね、慧翔くん?」
「真希……」
彼の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「ああ。その方がいいと思う」
「へぇ」
一葉さんが頬杖をついた。
「全部分かった後でも、ちゃんと名前で呼び合ってるのね」
肩がわずかに強張る。
「私たちで決めたことなんです」
慧翔くんより先に答えた。
「最初は、みんなの前だけのつもりでした。でも途中から、ただの演技のままで終わらせたくなくなったんです」
私は横目で慧翔くんを見る。
「だから……名前で呼び合いたいって、私からお願いしました」
「ふふ、なんだか面白いわね。でも、本当に嬉しいわ」
もう、なんて返せばいいのか分からなかった。
言葉がどこかへ消えてしまったみたいだった。
その時、ふとある考えが浮かぶ。
うまくいくかは分からないけど。
「慧翔くん、部屋の片づけ手伝ってくれる?」
彼はすぐに意図を察したのか、小さく頷いた。
「ああ、もちろん」
「私も手伝いたい! いいでしょ、お姉ちゃん?」
本当のことを話した後でも、真夜ちゃんは変わらずそう呼んでくれていた。
もちろん、嫌なわけがない。
むしろ、嘘をついていたことで嫌われるんじゃないかって、少し怖かったくらいだ。
「本当にいいの、真夜ちゃん?」
真夜ちゃんはそのまま駆け寄ってきて、ぎゅっと抱きついた。
それから、秘密話をするみたいにこちらへ顔を近づけてくる。
私が少し首を傾げると、彼女は小さな声で囁いた。
「間違えて送ってきた写真のことも、お兄ちゃんと一緒にいる時の顔も……ほんとは好きなんでしょ?」
いたずらっぽい目を向けられて、一瞬で警戒心が跳ね上がる。
そんなに分かりやすかったんだろうか。
慧翔くんと一緒にいる時の私は。
「私……あとで話してもいい?」
「……いいよ。その代わり、一緒にお風呂入ってくれるなら」
「え?」
「うん。それが私の条件。嫌って言うなら、お兄ちゃんに写真見せちゃうし。それに、もうバレバレだもん。ふふふ〜」
「……仕方ないわね」
「やった〜」
私は諦めたようにため息をついた。
もう逃げられそうになかった。
誰かと一緒にお風呂に入るなんて初めてだけど——
相手が真夜ちゃんなら、まだ安心できる。
……そういえば。
「じゃあ、その時に話すってことでいい?」
「うん! じゃあ早く行こ!」
真夜ちゃんは返事も待たず、私の背中を押し始めた。
「ほらほら、時間もったいないよ! お兄ちゃんも早く! 遅れちゃうよ? 私、早くお姉ちゃんとお風呂入りたいんだから!」
「ちょ、待って……二人で風呂入るのか?」
慧翔くんが驚いた顔をすると、真夜ちゃんはさらに楽しそうに笑った。
「なにお兄ちゃん。もしかして羨ましいの?」
「え?」
真夜ちゃんにからかわれて、慧翔くんはすぐに歩く速度を上げた。
耳まで真っ赤になっている。
「違うって。別に羨ましいとかじゃないから。二人でゆっくり入ってこいよ」
「はいはい、そういうことにしとくね〜。すっごく伝わってくるけど」
真夜ちゃんは楽しそうに笑いながら、また私の腕を引っ張った。
「行こ、お姉ちゃん。もっと急がなきゃ」
私は横目で慧翔くんを見る。
彼はまだ、まともにこっちを見ようとしなかった。
なのに、なぜかそれが少し嬉しかった。
「……うん」




