第59話 みんなへのサプライズ
そっと手を引かれて、私は現実に引き戻された。
見上げると、慧翔くんが気まずそうにこちらを見下ろしていた。
耳まで真っ赤で、視線は私たちの繋がった手に向いている。
「真希……そろそろ離してくれないか。みんな見てる」
幼なじみの前で急に恋人らしいことをされて、恥ずかしくなったのか、小声でそう呟いた。
私は一度自分たちの手を見て、それからリビングへ視線を向ける。
葵さんはもう真夜ちゃんと楽しそうに話していた。
それでも。
さっき彼女が慧翔くんを抱きしめた時の胸の痛みは、まだ消えていなかった。
しかも、それを一週間も耐えなきゃいけないなんて。
まるで拷問みたいだった。
私はもう一度だけ彼の手をぎゅっと握り、それから前を向く。
「やだ。ここにいる間は、私が彼女なんでしょ?」
少しだけ唇を尖らせる。
「ただのお仕事よ、慧翔くん」
返事を聞く前に、そのまま彼の手を引いて家の中へ入っていった。
……………
…………
………
「お部屋へようこそ」
一葉さんはドアを開けるなり、そう言った。
部屋は想像していたより広かった。
夕暮れの光が窓から差し込み、磨かれた木の床を優しく照らしている。
全部が温かくて、落ち着く空間だった。
でも——
今まで過ごしてきた場所とはまるで違うこの部屋に、ちゃんと馴染めるのかはまだ分からなかった。
「ありがとうございます、一葉さん」
私は小さく頭を下げた。
「母さん、父さんは?」
慧翔くんが父親の姿が見えないことに気づいて尋ねる。
「ああ、それね。ちょっと遅くなるみたい。用事で出かけてるのよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は母から頼まれていたことを思い出した。
慧翔くんのお父さんがいる時に話した方がいい。
それに——
あのことも、ちゃんと話すべきかもしれない。
もう決めたから。
「真希ちゃん、先に荷物広げちゃって。終わったら降りてきて、ご飯にしましょう」
一葉さんはそう微笑むと、次に息子へ視線を向けた。
「あなたもちゃんと手伝いなさい」
「分かった。すぐ降りるよ」
そう言って、一葉さんは部屋を出ていく。
残されたのは、私たち二人だけだった。
「慧翔くん」
「ん?」
「あとで……ご両親と話したいの。私たちのこと」
彼はすぐに察したらしい。
「真希、もしかして……婚約のこと話すつもりか?」
「……うん」
私は一瞬視線を落とした。
「もう隠しておけないし。それに……相手があなたなら、嫌じゃないから」
「……俺も、嫌じゃない」
その瞬間、心臓が壊れそうなくらい跳ねた。
飾り気のない言葉だった。
でも、それだけで十分だった。
胸の奥が、勇気で満たされていく。
「……嬉しい」
慧翔くんが小さく頷く。
自然と笑みが浮かび、静かな沈黙が部屋を包んだ。
けれど、不思議と気まずくはない。
むしろ——
心地よかった。
その時。
ぐぅ……
二人のお腹が同時に鳴った。
一瞬、空気が止まる。
そして次の瞬間、私たちは同時に吹き出した。
「ふふっ……」
「はは……」
「先に降りた方がよさそうだな」
「うん。待たせるのも悪いし」
軽く部屋を整えて、荷物を片づける。
一通り終わる頃には、時計はもう午後二時を少し回っていた。
階段を降りた瞬間、出来立ての料理の香りがふわっと広がる。
食堂の方からは、話し声や食器の触れ合う音が聞こえてきた。
そして——
そこには、慧翔くんのお父さんがいた。
テーブルのそばに座っている。
顔立ちは慧翔くんによく似ていた。
けれど、そこにある雰囲気はもっと穏やかで、大人らしい落ち着きを感じさせた。
私たちの姿を見ると、彼は柔らかく微笑んだ。
「おお、これでちゃんと挨拶できるね」
そう言って、軽く席を立つ。
「和泉誠一郎です。慧翔の父です。うちの息子、迷惑かけてないかな?」
穏やかで優しい口調だった。
それだけで、張っていた緊張が少し和らぐ。
「いえ、とんでもないです」
私は微笑み返した。
「むしろ、いつも助けてもらっているのは私の方なので」
隣で慧翔くんが照れくさそうに小さく笑う。
その時、一葉さんがエプロン姿のままキッチンから顔を出した。
「あなた、まずは子供たち座らせてあげて」
それから私たちの方へ視線を向ける。
「ほら、ご飯できてるわよ」
誠一郎さんが頷き、みんなで食堂へ向かった。
真夜ちゃんと葵さんは、すでに席について待っていた。
そこで私は、思わず足を止める。
テーブルいっぱいに料理が並んでいた。
普通のお昼ご飯というより、まるでお祝いみたいだった。
しかも——
ちょうど私たちの前に、二つ並んだ席が空いている。
まるで、恋人同士の私たちを観察する気満々みたいに。
「あ、そうだ」
ふと思い出す。
「母が、よろしくお伝えしてくださいって言ってました」
その瞬間、慧翔くんのご両親が驚いたように顔を見合わせた。
「へえ」
一葉さんが興味深そうに笑う。
「ってことは、真希ちゃんのご両親も知ってるの?」
「はい。僕たちから話しました。付き合ってるって伝えたら、受け入れてくれて。それに……」
慧翔くんが続きを言いかけた瞬間、私はテーブルの下でそっと彼の手を握った。
彼の言葉が止まる。
そして、私を見る。
私は小さく首を横に振った。
「その話は後で。今は空気悪くしたくないから」
「……分かった」
慧翔くんは静かに頷いた。
「あとで話そう」
顔を上げると、一葉さんが隠しきれない笑顔でこちらを見ていた。
「もう、本当に可愛いわねぇ」
頬に手を添えながら、今度は夫を見る。
「ねえ、私たちの若い頃より可愛くない?」
「そうかもしれないな」
誠一郎さんの落ち着いた返事に、余計に恥ずかしくなった。
耳まで熱くなっていくのが分かる。
隣の慧翔くんも似たような状態らしく、全然両親の方を見ようとしなかった。
でも——
ふと葵さんを見ると、少しだけ様子が違っていた。
笑顔は浮かべている。
けれど、目だけは笑っていない。
そのことに、ほんの少しだけ満足してしまった自分がいた。
一方で真夜ちゃんは完全にテンションが上がっていて、まだ必死に葵さんの気を引こうとしている。
でも今回は、葵さんは別のことを考えているように見えた。
「はいはい」
一葉さんがぱん、と手を合わせる。
「冷めないうちに食べちゃいましょう」
その通りだった。
「いただきます」
みんなの声が食卓に重なる。
すぐに料理へ箸を伸ばした。
そして——
どれも本当に美味しかった。
魚は絶妙な焼き加減で、香ばしい。
野菜もさっぱりしていて、素材の味がしっかり残っている。
お寿司なんて、お店で出てきてもおかしくないくらいだった。
思わず、一葉さんの料理の腕に感心してしまう。
いつか私も、こんな風に料理できるようになりたい。
だって——
慧翔くんに、美味しいって言ってほしいから。
食べ終わる頃には、お腹がいっぱいでほとんど動けなくなっていた。
休みの間、絶対ちゃんと運動しよう……。
「ごちそうさまでした、和泉さん」
葵さんが、彼女らしい眩しい笑顔を浮かべた。
「いいのよ」
一葉さんがすぐに笑い返す。
「葵ちゃんはいつでも歓迎なんだから」
「ふふ、ありがとうございます」
葵さんが柔らかく微笑む。
……甘い。
甘すぎる。
しかも彼女は、そのまま自然な動作で椅子を少し慧翔くんの方へ寄せた。
「ところで、慧翔くん」
楽しげな声だった。
「初めて一緒に学校行った日のこと、覚えてる?」
なぜか、その言い方が妙に引っかかった。
まるで——
二人だけの思い出を見せつけられているみたいで。
慧翔くんは懐かしそうに目を細めた。
「ああ。帰りに雨降った日だろ」
「そうそう!」
葵さんが楽しそうに笑う。
「もうほんと可愛くて、ずっと抱きしめてたくなるくらいだったんだから」
少し身を乗り出した。
「……まあ、今もだけど」
食卓が小さな笑い声に包まれる。
私も笑った。
少なくとも、表面上は。
でも内側では、もう限界が近かった。
そして——
それで終わりじゃなかった。
葵さんは次々と昔話を続けていく。
小学校の頃の話。
近所で遊んでいた時の話。
子供の頃の失敗談。
その全部に、どこか誇らしげな笑顔を浮かべながら。
一つ話されるたびに思い知らされる。
彼女が、どれだけ長い時間慧翔くんの隣にいたのか。
「ねえ、慧翔くん」
また葵さんが口を開く。
「中学の時さ、みんなに私たち付き合ってるって勘違いされた日あったじゃん? あの日ほんと――」
違う。
この人、わざとやってる。
私はテーブルの下で、慧翔くんの手を少し強く握った。
まるで、このまま離れていってしまいそうで怖いみたいに。
でも——
葵さんが言い終える前に、慧翔くんが遮った。
「葵」
静かな声だった。
けれど、はっきりしていた。
「その辺にしといてくれないか」
一瞬で食卓が静まり返る。
「父さん、母さん。それにみんな」
慧翔くんの視線が、一人ひとりへ向けられた。
「真希と俺から、ちゃんと話しておきたいことがある」
すぐに、場の空気が変わった。
好奇心を含んだ視線が集まる。
そして慧翔くんは、ゆっくり私を見た。
その目には、迷いじゃなく信頼があった。
「真希。お前に任せる」
……私に?
一瞬だけ驚く。
でも、すぐに分かった。
彼は、私に託してくれたんだ。
私は小さく息を吸った。
顔を上げる。
すると、葵さんと目が合った。
そして初めて。
彼女の目に、わずかな不安が浮かんでいるのを見つけた。
それだけで、少し勇気が湧いた。
私は微笑む。
慧翔くんの手を離さないまま、はっきりと言った。
「私たち、婚約しています」




