第58話 真希の嫉妬
一葉さんに視線で促され、私は慧翔くんの隣に座るため後部座席へ乗り込んだ。
慧翔くんはさっきより少し肩の力が抜けているように見えた。
それでも何も言わず、そっと手を伸ばして私の手を握る。
さっき彼に言われた言葉を思い出して、私は小さく微笑み返した。
彼はまた窓の外へ視線を向け、何事もないような顔をしていた。
私は黙って前を見る。
ふとバックミラー越しに、一葉さんと目が合った。
隠しきれない笑みを浮かべている。
むしろ私たちより楽しそうなくらいだった。
その無言の後押しに背中を押されるように、私は慧翔くんの温かな手を少しだけ強く握り返した。
「よろしくお願いします──」
静かにエンジンがかかり、車は駅を後にする。
窓の外の景色が、少しずつ変わっていった。
近代的な街並みから、細い道へ。
昔ながらの家々が並び、竹林の合間を風が抜け、小さな橋が川に架かっている。
少し開いた窓からは、湿った木の匂いと、ほのかに温泉の香りが流れ込んできた。
静かな場所だった。
都会とはまるで違う。
私が育った場所とも、全然違う。
「もうすぐ着くわよ。真夜なんて、窓に張りついて待ってるんじゃないかしら」
一葉さんがくすっと笑いながら言った。
やがて車がゆっくり速度を落とす。
家々の間隔が広がり、そして一軒の伝統的な二階建ての家の前で停まった。
玄関の前には、小さな日本庭園が広がっている。
心臓がうるさいくらい鳴っていた。
長かった旅が、終わった。
「着いたよ」
慧翔くんが小さく呟く。
彼は先に車を降りると、私のためにドアを開けてくれた。
三月下旬の冷たい風が、車を降りた瞬間に頬を撫でる。
一葉さんはそのままトランクを開け、私の荷物を取り出そうとしていた。
「私が運ぶわ。それに、ゲストルームも案内したいし」
断ろうとしたけれど、彼女はもうスーツケースを持ち上げていた。
結局、私は諦めるしかなかった。
慧翔くんは玄関の前で待っていた。
隣まで歩いていくと、彼が引き戸を開ける。
「お邪魔します」
家の中へ入った瞬間、リビングの方から元気な声が響いた。
慧翔くんが数歩進んだところで足を止める。
「お兄ちゃん! やっと来た! 真希お姉ちゃんは!?」
小さな影が勢いよく飛び出してきた。
反応する間もなく、その子は慧翔くんに思いきり抱きつく。
「真夜ちゃん……」
すぐに分かった。
けれど、私の目を引いたのは彼女じゃなかった。
「やあ、慧翔くん。久しぶり」
もう一つの声が、奥から聞こえた。
そして、その姿が見える。
私と同じくらいの背丈の女の子だった。
明るい茶色の髪を揺らしながら、こちらへ歩いてくる。
目を惹くほど柔らかな笑みを浮かべていた。
自然体なのに、いるだけで周囲を明るくしてしまうような人。
彼女は迷うことなく慧翔くんのそばへ歩み寄った。
「会いたかった」
そう言って、彼を抱きしめる。
まるでそれが当たり前みたいに。
何度も繰り返してきたことみたいに。
「葵さん……? いつ戻ってきたんだ?」
「あなたが都会に行ってすぐかな」
彼女はふっと微笑んだ。
余裕のある、崩れない笑みだった。
「だって、大事な幼なじみを待たせたくなかったから」
幼なじみ。
その言葉が、思っていた以上に胸へ深く刺さった。
彼女の、慧翔くんを見る目。
自然に彼へ触れる仕草。
当たり前みたいに距離を越えていく空気。
それだけで、嫌でも分かってしまう。
彼女は、慧翔くんにとって特別な存在なんだ。
私が現れるより、ずっと前から。
ずっと彼の隣にいた人。
そして初めて、この場所へ来てから——
私は、怖くなった。
どうしようもなく、理不尽なくらいに。
この数ヶ月でようやく縮まった距離が、また目の前で遠のいていく気がした。
まるで、私の可能性が少しずつ消えていくみたいに。
でも、ただ黙って見ているわけにはいかなかった。
彼の隣に立ちたいなら、それをちゃんと示さなきゃいけない。
そう思って踏み出しかけた時、ようやく彼女が私の存在に気づいた。
ぱちりと目を見開き、それから興味深そうに笑みを浮かべる。
「紹介してくれないの?」
その瞬間を逃さなかった。
私は慧翔くんのそばへ寄ると、深く考えるより先に彼の手を握った。
心臓がうるさいくらい鳴っている。
「黒川真希です」
微笑む。
自分でも知らなかったくらい、自然な笑顔だった。
「慧翔くんの彼女です。よろしくお願いします」
その言葉が、静かな廊下に落ちた。
一瞬、誰も口を開かなかった。
慧翔くんの手が、私の手の中でわずかに強張る。
それでも私は、離さなかった。
葵さんは数回瞬きをして、それからあまりにも自然に笑った。
その笑顔だけで、心がひどく乱される。
「ああ、あなたが真希さんなんだ!」
反応する前に、彼女は親しげに私の肩を抱き寄せた。
体が一瞬で強張る。
ほとんど同じくらいの背丈。
近くで見ると、彼女の明るい表情も、淡い茶色の髪も、この場の空気ごと照らしてしまいそうな眩しい雰囲気も、全部よく分かった。
柔らかく爽やかな香りまで心地いい。
だからこそ、余計に苛立った。
「南葵です。葵って呼んでください」
彼女は得意げに笑った。
「このバカとは、オムツの頃からの腐れ縁なんです。よろしくね、真希さん」
あまりにも自然に言うから、胸の奥がざわつく。
幼なじみ。
しかも、大親友。
絶対に埋められない時間がそこにはあった。
「どうやって慧翔くんのこと我慢してるのか、今度ぜひ教えてほしいな」
「こちらこそ、よろしくお願いします。葵さん」
できる限り笑顔を崩さずに答える。
そっと彼女の腕から離れた。
でも、慧翔くんの手だけは離さない。
一瞬たりとも。
「実際、慧翔くんはすごく優しいですから。一緒にいて困ったことなんて、一度もありません」
表面上は笑っていた。
けれど内側は、全然違った。
『幼なじみ』
『大親友』
その言葉が、一つずつ胸に沈んでいく。
ちゃんと分かっていた。
彼女は、私の知らない慧翔くんを知っている。
私が出会うよりずっと前の彼を。
それが、怖かった。
「玄関で立ち話してないでー!」
真夜ちゃんがリビングからひょこっと顔を出した。
「真希お姉ちゃん、早く来て! 今すっごく面白いの見てるんだから!」
そのまま駆け寄ってきて、すぐに私たちの繋がった手に気づく。
途端に、にやっと笑った。
「そうそう、早く入りなさい」
一葉さんが私のスーツケースを持ちながら後ろから現れた。
その笑顔も、かなり意味深だった。
「葵ちゃん、真夜に会いに来てくれてたのよ。偶然でしょ?」
どう見ても偶然には思えなかった。
「それに、旅の疲れを癒す間くらい、話し相手がいた方がいいじゃない?」
「もちろん!」
葵さんが元気よく手を挙げる。
「それに、慧翔くんの恥ずかしい話、真希さんにいっぱい教えてあげなきゃだし」
「おい!」
そこで初めて、慧翔くんが抗議の声を上げた。
葵さんは悪びれもせず舌を出すと、そのまま真夜ちゃんと一緒にリビングへ向かっていく。
あまりにも自然に。
まるで、ずっと前からこの家の一員みたいに。
私は数秒、その背中を見つめていた。
夕暮れの光が窓から差し込み、空間全体を柔らかく照らしている。
まるで、本当の家族みたいな光景だった。
だからこそ、怖かった。
葵さんは明るい。
人を惹きつける魅力がある。
真夜ちゃんにも懐かれている。
一葉さんにも愛されている。
そして何より——慧翔くんとの距離が、危ういほど近い。
作家としての私は、すぐに答えを出してしまった。
もしこれが恋愛小説なら——
葵さんは、完璧なライバルだった。




