第57話 五時間の温もり
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駅へ向かう途中で軽く食事を済ませ、そのまま電車に乗って旅が始まった。
慧翔くんの話では、向かっているのは修善寺町らしい。
かなり有名な場所だ。実際、小さい頃に一度だけ行った記憶がある。
でも当時は両親の監視が厳しすぎて、ほとんど楽しめなかったし、誰かと仲良くなることもできなかった。
間違いなく、十歳の私にとっては悔しい思い出だった。
今それを思い出すのがいいタイミングなのかはわからない。
それでも、その記憶は昨日のことみたいに鮮明に残っている。
そんなことを考えながら向かっている途中で、ふとあの時に一葉さんが言っていたことを思い出した。どうやら、彼女の予言はまだ叶っていないらしい。
でも、試すのに遅すぎるなんてことはない。
そのためにはまず、真夜ちゃんに協力してもらわないといけない。
もちろん、彼女はまだ何も知らないから、話す時が来たらちゃんと伝えるつもりだ。
その前に、もう少しだけ確信が欲しい。
慧翔くんが私をどう思っているのか知りたい。
それを確かめる方法は、一つしか思いつかなかった。
もう彼の前で気持ちを隠す必要はないと思うから……
……うん、前にもやったことあるし。
一回くらい、別にいいよね?
「ねえ、慧翔くん──」
「うん?」
彼は窓の外の景色をぼんやり眺めたまま、こちらを向こうとしなかった。
私は何も言わず、その肩にそっと頭を預けた。
彼の体が少しだけ強張るのを感じる。
「真希、何して……?」
「昨日あんまり眠れなくて。少しだけ休ませてくれない?」
言い訳としては十分だった。
でも実際、ちゃんと眠かったのも事実だ。
荷造りに思った以上に時間がかかってしまったから。
「はいはい、いいよ。ゆっくり休みな」
彼の手がそっと私の髪を撫で始める。
まるで小さな子供をあやすみたいに。
「そんなことされたら、余計眠れなくなっちゃうよ」
「とりあえず試してみて?」
「……わかった」
もう一度目を閉じる。
彼の指がゆっくり髪を梳く感触を感じながら、体から少しずつ力が抜けていった。
なかなか眠れないと思っていたのに。
気づけば、ほとんど一瞬で眠りに落ちていた。
……………………
…………………
……………
「真希。真希、起きて」
誰かに軽く肩を揺すられている感覚がした。
このまま寝続けるわけにもいかない。
ゆっくりと目を開ける。
「どうしたの、慧翔くん〜?」
「もうすぐ着くよ。起きたほうがいい。母さんに迎え来てもらうから電話するし」
「え? そんなに寝ちゃってたの?」
はっとして体を起こした。
自分でも信じられない。
「五時間も……?」
驚きすぎて、それ以上言葉が出なかった。
けれどその瞬間、ある大事なことを思い出す。
「ちょっと待って……」
私は慧翔くんを見た。
「一葉さんが駅まで迎えに来るの?」
ああ……
まだ彼女に会う心の準備ができていない。
前回のこともあって、何を言えばいいのかまだ整理できていなかった。
きっと彼女は、慧翔くんと私が本当に付き合い始めたのか気になっている。
その話題だけは避けないと。
少なくとも、ちゃんと自分の気持ちを伝えるまでは。
どうなるかはわからない。
でも彼女に会う前に、何か考えておかないと。
そんなことを考えているうちに、まもなく到着を知らせるアナウンスが流れた。
電車がゆっくりと速度を落とし、数分後、ようやく目的の駅に到着した。
私たちはそのまま改札へ向かって歩き出す。
慧翔くんはまたスマホを取り出して電話をかけ始めた。
待っている間、何人かの男の人がこちらを見ていることに気づいた。
少し離れた場所にいたけれど、その視線がなんだか不快だった。
服装や態度も、昔会ったある人たちを思い出させる。
ぞわりと小さな寒気が走った。
その視線が気持ち悪い。
何か言おうとした、ちょうどその時だった。
慧翔くんが私の手を握る。
そして、そのまま彼らへ鋭い視線を返した。
まるで無言のまま伝えているみたいだった。
「彼女は俺のものだ」と。
「ここにいる間は、ちゃんと俺の彼女だってこと忘れるなよ」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
確かに、それは計画の一部だ。
でも……
彼があまりにも自然にそう振る舞うものだから、思わず笑みがこぼれてしまう。
「うん」
そっとうなずきながら、私も彼の手を少しだけ強く握り返した。
自然と笑みが浮かぶ。
けれどすぐに、これもまだ私たちの小さな芝居の一部なんだと思い出した。
そんなことを考えていると、冷たい風が肌を撫でて、少し肩が震える。
あ、そういえば、ここ数日何も書けていなかった。
パソコンも持ってきていないし、携帯で書くしかなさそう。
そんなふうに考え込んでいると、ファミリー向けの銀色の車が私たちの前で止まった。
数秒後、一人の女性が車から降りてこちらへ歩いてくる。
「ほほほ〜〜〜。待ってたわよぉ。どうやら二人とも、ずいぶん居心地良さそうじゃない」
彼女の視線は真っ直ぐ私たちの繋がった手に向けられていて、口元にはあのいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
慧翔くんから電話を受けて慌てて出てきたのか、一葉さんはラフな私服姿だった。
私たちは何も言わず、同時に手を離した。
なんだかんだで、一葉さんは私たちが本当に付き合っているわけじゃないことを知っているから。
「……あるいは、もうそんなふうに誤魔化さなくてもいいのかもしれないわね」
面白そうにそう呟きながら、一葉さんが少し近づいてくる。
「またお会いできて嬉しいです、一葉さん」
私は丁寧に頭を下げた。
「そんなにかしこまらなくていいわよ。ほら、車乗って。そのスーツケース、あなたの?」
そう言って、慧翔くんが持っていた荷物を指差す。
「いや〜、紳士ねぇ」
その瞬間、慧翔くんの顔がみるみる赤くなった。
一葉さんと私は顔を見合わせ、小さく笑う。
それに気づいた彼は視線を逸らし、慌てた様子で私のスーツケースをトランクへ押し込むと、そのまま後部座席へ乗り込んだ。
「ふふふ〜。どうやら誰かさん、照れちゃったみたいねぇ」
慧翔くんは聞こえないふりをして、無言のままドアを閉める。
「それで、彼とはどう? 迷惑かけられてない?」
私は慌てて両手を振った。
「そんなことないです。むしろ、いつも助けてもらってるのは私の方で……」
そう言いながら、この数ヶ月間で彼がしてくれたたくさんのことを思い出す。
気づけば、頬が熱くなっていた。
一葉さんはじっと私を見つめたあと、少しだけ体を寄せて耳元で囁く。
「慧翔と本当に付き合うの、私は大賛成だから。……もう知ってるでしょうけど。だから頑張りなさい」
心臓が跳ね上がった。
一瞬、言葉が出てこない。
「……頑張ります」
「応援してるわ。きっとうまくいくから」
満足そうに小さく笑ってから、一葉さんは車の方へ戻っていった。
「さ、行きましょうか。二人とも乗って」
「はい」
私は微笑みながらそう返事をして、車へ向かった。
こうして私は、緊張と期待、それから鳴り止まない鼓動を胸に抱えたまま、慧翔くんの両親の家へ向かうことになった。




