第56話 甘すぎるハプニング
結局、しばらくして自分の部屋へ戻った。
笑うのをやめられなかった。
しかも、こんなに可愛いぬいぐるみを抱えているんだから、なおさらだ。
何度も何度も、その顔を見つめてしまう。
たぶん……少しずつ練習してみてもいいのかもしれない。
視線が、その布でできた小さな笑顔に吸い寄せられる。
それだけで、また胸がドキドキし始めた。
すごく緊張していて、もし今の私を慧翔くんに見られたら、恥ずかしさで死んでしまいそうだった。
……いや。
そんなわけない。
そう思いながらも、胸いっぱいに広がる幸せに背中を押されるように、ゆっくり顔を近づけた。
そして、くまさんの笑顔にそっと唇を重ねる。
ほんの一瞬だけ。
でも、その時ずっと慧翔くんのことを考えていたなんて、恥ずかしくて認めたくない。
これからは、彼を思い出すたびに抱きしめられるものができた。
そして、そのたびに胸が少しだけ痛くなる。
甘くて、温かい痛み。
彼の笑顔を思い出すたびに広がる、大切な気持ち。
「よし……もう寝よう」
明日は大事な——
不意に鳴った通知音が、考えを遮った。
気になってスマホを手に取る。
画面を見た瞬間、誰からかわかった。
真夜ちゃんからのメッセージだった。
どうしたんだろう。
[お母さんと一緒にお誕生日おめでとう! 明日、プレゼントもあるからね。二人に早く会いたいな]
思わず微笑んでしまった。
きっと今日は、人生で一番幸せな日だった。
もう安心して眠れそう。
今週中に、絶対に彼へ気持ちを伝えよう。
……うん。
まずは荷物を準備しないと。
でも、その前に——
くまさんに名前をつけなきゃ。
目の前に持ち上げて、じっと見つめる。
数秒考えて、思いついたのは一つだけだった。
「くまたん……でいいかな?」
うん。
完璧な名前だ。
これでようやく荷物をまとめて、安心して眠れる。
………………………
…………………
……………
* * *
もう朝……?
昨夜は遅くまで準備していたせいで、アラームをかけ忘れてしまった。
「真希、起きてる? 大丈夫?」
ああ。
ドアの向こうに慧翔くんがいる。
昨日、あんなお願いをしたなんて、まだ信じられない。
嬉しすぎて、勢いのまま言ってしまった。
もちろん後悔はしていない。
でも、こんなに緊張していることは、できれば知られたくなかった。
「は、はい! 起きてる! すぐ行くからーー!」
慌てて起き上がろうとして——
シーツに足を取られ、そのままベッドから落ちた。
「真希?!」
慧翔くんが慌ててドアを開ける。
どうやら昨夜、鍵を閉め忘れていたらしい。
「真希、大丈夫……!」
そこで彼の声が止まった。
床に倒れている私を見たからだ。
いやいやいやいや……
恥ずかしすぎる〜〜。
パジャマ姿まで見られちゃったし……!
でも、慧翔くんは固まったりしなかった。
すぐに私のところまで駆け寄ってきた。
「真希、手貸して」
慌ててこっちへ来ようとした。
でも、私の部屋は旅行に何を着ていくか悩み続けたせいで、昨夜のまま散らかり放題だった。
ベッドの上にも、椅子の上にも、床にも服が散らばっている。
片付ける余裕なんてなかった。
慧翔くんは私を起こそうとしたけど——
床に落ちていた服に足を引っかけて、そのままバランスを崩した。
そして、私の目の前に倒れ込んでくる。
慌てて起き上がろうとして、私にかかっていたシーツをどかし始めた。
「え? なにこれ……?」
彼の手が、私の——
「バカっ! それシーツじゃない! 胸触らないで!」
考えるより先に、平手打ちしていた。
乾いた音が部屋に響く。
……………
…………
………
「だから事故だって言ってるだろ……」
「知らない」
ちゃんと付き合って……その先に結婚してからなら、そういうことだって許せるのに……
……いや。
なんで今そんなこと考えてるの?
まだ恋人ですらないのに。
でも、形式上は婚約者同士で……
それって、どういう意味なんだろう。
「その話はまた今度にしない? 早くしないと、俺の実家に遅れるぞ」
ああ。
そこでようやく、なんで急に部屋へ入ってきたのか思い出した。
「わかった。荷物はもうまとめてあるし、あとはこの部屋をどうにかするだけだから」
「俺の頬、まだ痛いんだけど〜〜」
それは……まあ、私のせいだった。
うん……半分くらいは。
そっと近づいて、叩いてしまった頬に触れる。
でも彼は、熱いものに触った猫みたいにすぐ離れた。
「痛いって。もうちょっと優しくしてくれない?」
「じゃあどうしろっていうのよ……って、まさか……」
「俺、何も言ってないからな? 勝手に想像しないでくれ」
とぼけないで。
何期待してるかくらい、ちゃんとわかってるんだから……
でも、そんなことするわけない。
…………
………
……
バカ。
バカ。
バカ。
もう、変な選択肢ばっかり増やさないでよ。
触っていい場所と悪い場所があるのはあなたのせいだし、でも旅行中ずっと気まずいままなのも嫌だった。
諦めたように小さくため息をつく。
それから彼にそっと近づいて——
叩いてしまった頬に、素早くキスをした。
「か、勘違いしないでよ! 謝った方がいいと思っただけなんだから!」
平静を装った。
少なくとも、そのつもりだった。
でも耳がどんどん熱くなっていくのが、自分でもわかる。
一方の慧翔くんは、完全に固まっていた。
その反応が可笑しくて、思わず心の中で笑ってしまう。
緊張してる慧翔くんって、本当に可愛い。
次の小説にこういうシーン入れようかな。
「ほら、急がないと。あなたも準備して。駅で何か食べよう」
部屋を片付けて、準備を全部終えたあと、ようやく廊下へ出た。
その時、ふと気づく。
慧翔くんはもう出かける準備を終えていた。
なのに——
着替え以外、何も持っていない。
スーツケースもなければ、バッグすらない。
本当に手ぶらだった。
一瞬、不思議に思った。
でもすぐに思い出す。
今日は慧翔くんの実家へ行くんだ。
きっと向こうに服があるんだろう。
うん、きっとそうだ。
一緒に部屋を出る。
歩きながら、横目で彼を見つめた。
慧翔くんと暮らし始めて、もう三ヶ月以上経っていた。
こんな短い時間で、ここまで好きになるなんて思わなかった。
でももう——
何もないふりなんてできない。
次の一歩を踏み出す時なんだ。
…………………
……………
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