第48話 あと一歩、届かなかった
そう時間を置かずに、彼女の目が大きく見開かれた。
それから、驚きに満ちた笑顔がゆっくりと浮かぶ。
数秒ほどそのままで、俺はハンバーガーを食べ終えた。
そのあと、彼女の反応をもっと近くで見たくなって、隣へ移動する。
「和泉くん、大好き! すっごく良くできてる。今の話、前よりずっと好き……さすが『天才』だね」
満面の笑みを浮かべた彼女は、そのまま抱きついてきた。
一緒にソファへ倒れ込んだものの、彼女は離れる気配を見せない。
「お、おい……ちょっと落ち着けって。これはさすがに……──」
引き離そうとしたけど、彼女はまるで抵抗しなかった。
それでも……
……悪くない、かもしれない。
いや、変なこと考えるな。
彼女はただ、話が良くなったのが嬉しいだけだ。
「いや……大したことじゃない」
ゆっくりと、彼女が離れていく。
そして、目が合った。
こんなにも近くに彼女がいる――それだけで、心臓が激しく脈打ち始める。
彼女の瞳に完全に吸い込まれて、他のことなんて何も考えられなくなった。
このままじゃ……心臓がもたない。
そっと、彼女の頬に触れる。
彼女も目を逸らさなかった。
少しずつ、二人の距離が縮まっていく。
「黒川さん……」
彼女もゆっくりと手を伸ばし、俺の頬に触れた。
唇がわずかに開き、静かに目を閉じる。
「和泉くん……」
そして、最後の一歩を踏み出そうとした、その瞬間――
♪ ♫ ♪
突然の着信音に、二人そろって動きを止めた。
ソファ横のガラステーブルから、スマホの音が鳴り響く。
反射的に、俺たちはすぐ離れた。
彼女の顔は一瞬で真っ赤になっていて……たぶん、俺も同じだったと思う。
彼女は何も言わずスマホを手に取り、目を逸らしたまま通話に出た。
「……真夜ちゃんよ」
くそっ……真夜!!
最高のタイミングを台無しにしやがって。
もしかしたら、あれが彼女に一番近づける最後のチャンスだったかもしれないのに。
なんでこういうことって、いつも最悪のタイミングで起きるんだ。
もっと早く踏み出せなかった後悔が、頭の中を埋め尽くしていく。
今はもう、彼女の唇のことしか考えられなかった。
一方、黒川さんは真夜と話しながら、なんとか普段通りの笑顔を保とうとしていた。けれど、さっきのことでまだ恥ずかしがっているのは明らかだった。
きっと……心の中では、彼女も同じくらい悶えている。
電話は、彼女の小さな笑い声と、「彼のことはまた今度考えるわ」という言葉で終わった。
けれど、通話を切った途端、また視線を逸らす。
耳まで真っ赤だった。
正直……
彼女のほうが、俺よりずっと恥ずかしがっている。
スマホをしまいながら、彼女は何かを言い聞かせるように小さく呟いた。
「次は……邪魔されないように、ちゃんと電話も切っておかないと……」
あまりにも小さな声で、聞き取れるかどうかぎりぎりだった。
「さ、さあ……暗くならないうちに勉強始めよっか」
「あ……そうだな」
その後は、妙に気まずい空気が続いた。
少し触れ合うだけで、お互い過剰に反応してしまう。
そんな調子で、残りの時間を過ごした。
本当の気持ちを認めるには、二人ともまだ恥ずかしすぎた。
* * *
◇◆◇◆◇
今日は、和泉くんとのデートの日。
くそっ……一週間以上なんて、あっという間だった。
すごく緊張してる。
特に、先週末に見てしまった“あれ”のせいで。
あれは……
きっと、私の勘違いだ。
そんなこと、あるわけない。
考えるだけで胸が苦しくなる。
二人から話してくれるのを待っていた……でも、結局何も言ってくれなかった。
それ以来、ずっとあのことが頭から離れない。
悔しくて、私……
「坂本さん!」
その声……
和泉くんだ。
声のした方へ顔を上げる。
「あ、和泉くん。おはよう」
少し息を切らしていた。
相変わらず、すごくカッコいい。
彼を見ていると、どうしても初めて話した日のことを思い出してしまう。
……あの日が懐かしい。
もしかしたら今日……このチャンスを掴めば、ついに気持ちを伝えられるかもしれない。
今日はすごく準備してきた。どうすれば彼に好きになってもらえるか考えて、ほとんど眠れなかったくらいだ。
真希ちゃんには、いつもより明るく振る舞ったほうがいいって言われた。そうすれば、もしかしたら私のことを意識してくれるかもしれないって。
「おはよう、和泉くん」
とびきりの笑顔を向ける。一瞬、腕を組もうかとも思ったけど、それで全部台無しになる気がした。
「坂本さん、おはよう。待たせちゃった?」
私は軽く首を振る。
「今来たところだから、気にしないで。それで、これからどこに行くの?」
「とりあえず時間を潰そうか。あ、そうだ……黒川さんから聞いたんだけど、次の小説の新キャラのイラスト、もうできてるんだって?」
あ……そうだった。
えへへ……どうやら本当に私の絵を見たがってくれてるみたい。
「じゃあ……どこ行こっか? 和泉くんの意見も聞きたいし」
彼はうなずき、二人で並んで歩き出した。
結局、近くのカフェに入ることになった。本来の目的は別だったけど、二人で小説の話がしたかったから。
だって、前の作品はもう完結したし、五万ポイントも取れたんだ。
もちろん……あのバカの雨宮くんは、相変わらず八十七万ポイントを自慢してるけど。
あんな嫌なやつなのに、なんでプロのライトノベル作家になってないんだろう。
あれだけウザいくせに、めちゃくちゃ面白い話を書くんだから。
飲み物を注文したあと、タブレットのギャラリーを開いて、新しいイラストを見せた。
和泉くんは、一枚一枚を本当に大事なものみたいに、驚いた顔で見つめていた。
「さすがだな……やっぱり、君の絵は本当にすごい」
その一言だけで、頬が熱くなるのがわかった。
「ありがとう。実は……真希ちゃんの話、すごく良かったんだ。最初から最後まで夢中になっちゃった」
「ははは、そうだな。今回はほとんど全部、彼女のアイデアだったから」
彼の声はどこか誇らしげだった。まるで、後輩の才能を自慢する先輩みたいに。
もちろん……彼が彼女をそんなふうに褒める理由くらい、ちゃんとわかってる。
それでも……置いていかれてる気分になってしまう。
今日こそ……言わなきゃ。
もう授業はない。
昨日から夏休みが始まったんだから。
今が、その時だ。
でも……もしかしたら、もう少しだけ待ったほうがいいのかもしれない。
まだ時間はある。
「これからどこに行くの、和泉くん?」
「ショッピングモールかな。今日のメインって、そこだっただろ?」
「ずるいな〜。でも、その通りだよね。真希ちゃんのプレゼント、買わなきゃだし」
彼はもう一度うなずき、二人でショッピングモールへ向かって歩き出した。
* * *




