第35話 可愛いちょっとした出来事
また同じ夢だ。今度は教室で、二人きり。見つめ合い、互いに想い合っている。
今度は彼女が近づいてきて、乾いた唇の端が触れた。
――その瞬間、跳ね起きた。
すぐに体を起こし、彼女の顔から距離を取る。
真っ赤な彼女の顔は、なぜか衝撃を受けたように見えた。
目を覚ますと、俺の顔は彼女のすぐ近くにあった。何か言うより先に、彼女は自分の唇に触れる。
それで――俺たちがキスしてしまったことを理解した。
ほぼ同時に顔が熱くなり、ベッドから飛び起きた。
「ごめん……本当にごめん。寝てて気づかなかった……」
彼女は顔をそむけた。
何も言わない。ただ、言葉を失っている。
……でも、気のせいか、わずかに笑ったようにも見えた。
ドアの方を振り向くと、彼女の母親が立っていた。驚いた様子で、手にはスマホ。どうやら写真を撮ったらしい。
――そうだ、昨夜ドアを閉め忘れた……!
「黒川さん……まさか……」
彼女は含み笑いを浮かべ、そのまま去っていく。
「もう行くわね。朝ごはん、用意してあるから。早く起きなさい」
口調は普段通りだったが、その表情には妙な確信と満足が浮かんでいた。まるで、俺たちが付き合っている証拠でも手に入れたかのように。
二人とも慌てて起き上がり、目を合わせない。
……やっぱり、どこか俺の母親に似ている。けど、行動も話し方も微妙に違う。
「はい……すぐ起きます」
「ねえ……勘違いしないで。あれはキスじゃないから。ただ唇が触れただけ」
俺の唇には、まだかすかな感触が残っていた。
奇跡なのか、最悪なのかはわからない。けど、もう起きてしまったことだ。
彼女は、俺が何か言う前に部屋を飛び出していった。
……思っていたより、衝撃を与えたのかもしれない。
◇◆◇◆◇
私、何してるの……何してるの、何してるの……?
やばい、ほんとにやばい。唇が触れただけなのに……まさかお母さんに写真を撮られるなんて。
恥ずかしい、恥ずかしすぎる……
もう消えたい……
お風呂場で深く息を吸い、顔を洗って、もう一度深呼吸する。
「落ち着いて……ちゃんと考えるべきだった。そう、考えるべきだったのに……」
自分に言い聞かせる。
私が……やったこと。私が悪い。
でも……正直、後悔はしていない。
そのとき、浴室のドアがノックされた。
「真希、スマホ見てごらん。きっと気に入るわよ」
母とのチャットを開く。
そこにあったのは――
慧翔くんと私。ほんのわずかに唇が触れていて、二人とも目を閉じている写真。
さっきのことを思い出す。
目が覚めたとき、彼の顔がすぐ近くにあって……十センチも離れてなかった。
心臓が一気に速くなる。
キスしたい――そんな考えが浮かんだ。
一瞬迷った。でも……今やらなきゃ、一生できない気がした。
顔を近づける。真っ赤になりながら、鼻が触れたところで、また迷う。
――でも、そのとき。
彼の方がわずかに動いて……キスしてしまった。
彼のは偶然。でも、私のは――
最初から、そうしたかった。
もし真昼ちゃんに知られたら、きっと傷つく。耐えられないと思う。
でも……
私も同じ気持ちだって、気づいてないの?
気づいてると思ってたのに。
どうすればいいのかわからない。引きたくない。でも、二人の間に割り込みたくもない。
この気持ちは痛い。すごく痛い。内側から裂かれるみたいに。
もし私が……彼女みたいだったら。
もし真昼ちゃんみたいに、素直に気持ちを伝えられたら。
大事な友達も傷つけたくない。妹みたいに大切な存在。
今まで、こんな子はいなかった。
息を吸う。
必要以上に吸って――決めた。
その写真を、待ち受けにした。
もし私だけの存在でいられたら、頑張れるのに。
でも無理。
彼は……真昼ちゃんと付き合うべき人であって、私じゃないんだから。
結局、私たちは偽物で……。
母が昨夜言った言葉を思い出す。
その一言で胸が熱くなって、嬉しくて叫びたくなったけど……結局は彼に迷惑をかけるだけだ。
しばらく彼から距離を置いた方がいい。
それが一番だ。
* * *
結局、お風呂場から出た。幸い、目も赤くなっていなかったし、他に変なところもなかった。耳はまだ少し赤かったけど、今はもう落ち着いている。
彼の横を通り過ぎる時、ふと彼の唇を見て……また触れたいと思ってしまった。
このままだと、おかしくなりそう。
母はこれが私たちにとって普通のことだと思っているだろう。
……とんでもない誤解だ。
朝ごはんの時、二人の間の空気は重かった。母もそれに気づいたようだった。
「そんなに恥ずかしがらなくていいのよ。そのうち、もっと普通にできるようになるんだから」
母は含みのある笑みを浮かべた。私たちに聞こえていないふりをして。
でも……本当は、そうなればいいのに。
すぐに食べ終えて、学校へ行く準備をして部屋を出た。
エレベーターの中、沈黙が続く中で、再び母の声が響いた。
タバコを吸いたくて仕方なさそうだったけど、それでも私たちに言うことがあるらしい。
「二ヶ月後にまた来るわ。その日に全部決めるの。いい? 今は婚約者なんでしょ。どうせ付き合ってるんだから」
その言い方は、まるで最後のチャンスを与えているみたいだった。私たちの手元を見ながら。
……私たちが何も示せていないから、そう言うんだろう。
一瞬だけ迷って、覚悟を決めて彼の手を握った。
私の手は熱くて、彼の手は少し冷たかった。
彼の顔が赤くなるのが見えたけど、手を離そうとはしなかった。むしろ、指を絡めてきた。
頬が一気に熱くなる。母が満足そうに微笑むのが見えた。
こんな表情の母を見るのは初めてだった……。
でも――
私、本当に慧翔くんのこと、好きになってもいいの?
この瞬間に乗じて、伝えたい。
結果がどうなっても、迷っても……この気持ちの方が強い。
「慧翔くん、大好き」
彼の肩にもたれかかると、そこから心臓の鼓動が速く伝わってきた。
「俺も大好きだよ、真希」
多分、今の状況だから言ったんだと思う。
でも……その言葉が本当だったらいいのに。
顔が熱くて仕方なかった。たとえその言葉が偽りでも……今はそれでよかった。
そして母は――今、はっきりと驚きながらも微笑んでいる。
そんな母の顔を見られたことが、少しだけ嬉しかった。




