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第34話 心の感情

 彼女の母親が振り返り、二人の視線がぶつかった。


 彼女は視線を逸らさずにドアを閉めようとしたが、俺が外にいることを思い出したのか、慌てて自分の部屋へ駆け込んだ。


 だが母親もすぐに反応し、彼女には届かなかったものの、苛立いらだちを隠さずドアを激しく叩き始めた。


「真希、ドアを開けなさい。あなたに構っている暇はないのよ」


「帰って! あなたは私が幸せになるのを邪魔するだけなんだから!」


 俺は部屋に入ったが、二人の間に割って入るべきではない気がした。きっとすぐに落ち着くだろう。


 数分後、次第に静かになった。母親はその場に崩れ落ち、考え込むようにうずくまった。


 やがて俺の視線に気づき、娘と同じような冷たい目でこちらを見据える。


 しかし次の瞬間、皮肉げに笑みを浮かべて口を開いた。


「どうやらあの子の意志いしは、私が思っていたより強いみたいね」


 どこか諦めたような口調だった。


 俺は意を決して、丁寧に答えた。


「夢を手放すのは簡単じゃありません。結局……俺も同じ気持ちですから」


 彼女は小さく息を吸い、どこか懐かしむように言った。


「あなたの話し方、私の夫を思い出すわ。あの人もいつも夢を守ろうとしていた……でも、選べと言われたら仕事を取る人だった」


 少し間を置き、じっと俺を見つめる。


「一つ聞かせて。あなたがあの子の言っていた……冗談でプロポーズした男の子ね?」


 予想外の質問だったが、事実だった。


 俺は迷わずうなずき、彼女の反応を待つ。


 だが彼女はただ微笑み、はっきりとした声で言い放った。


「前にも言ったけど、婚約するための条件は全部揃っているんだから、もう後戻りはできないわ。責任を取りなさい」


 その言葉に顔が青ざめ、永遠にも思える沈黙ちんもくが流れた――黒川さんの部屋のドアが開くまで。


「お母さん、私とお父さんが認めてないの忘れてるでしょ。だからそんな話には――」


 母親は額に手を当てた。


「お父さんには私から話すわ。前は冗談だと思っていたから言わなかった。でも今回は違う……この子、若い頃のお父さんにそっくりだもの」


「ちょっと待ってください、黒川さん。彼女と俺の意思もありますし……それに、俺の両親にも話すべきですよね?」


「そんなことを言う前に考えなかったの? 二人を見てごらんなさい……誰が見ても、もう恋人同然よ」


 少し間を置き、俺たちを見つめる。


「ねえ……本当に付き合ってるの? それに、あなたの両親は同棲どうせいしていることを知っているの?」


 否定しようとしたが、両親の話を出されて――


 言葉が詰まった。


 ……仕方ない。


 今回は、俺が台無しにする番だ。


 もう、後戻りはできない。


 本当のことを言えば、彼女は連れて行かれる。


 だから――


 俺はうなずいた。


「はい、付き合ってます。もう二ヶ月になります」


 黒川さんは予想していなかったのか、一瞬驚いたように目を見開いた。それでも、頬を赤らめながら小さくうなずいた。


 それを見て、母親は満足げに微笑んだ。


 * * *


 その話が一段落すると、彼女はゆっくりと立ち上がった。


「二人のこと、嬉しく思うわ。ちゃんとあの子を大事にしてあげてね……あなたの名前は?」


「和泉慧翔です」きっぱりと答えた。


「和泉慧翔……あなたに期待しているわ。私の娘は、今あなたに預けた。あなたの力を見せてちょうだい。あの子を本当に愛しているなら、証明しなさい」


 言い終える前に、彼女の腹が小さく鳴った。


 黒川さんはそれに気づいて、わずかに笑みを浮かべると、少しぶっきらぼうな口調で言った。


「テーブルに座って。今、夕飯を出すから」


 母親は軽く笑い、それから俺を見て、どうするのかを待った。


 俺は椅子に近づき、彼女が座りやすいように引いた。


「どうぞ……真希の料理は、美味しいですから」


 彼女は特に気にした様子もなく、そのまま椅子に腰を下ろした。


「ありがとう……でも、こんなことまでさせてしまって悪いわね」


 彼女が落ち着けるように気を配りながら、真希が配膳している間も会話を続けた。


 やがて配膳が終わり、真希は俺の隣に座る。


 三人で軽く手を合わせ、それから食事を始めた。


 最初に口をつけたのは母親だった。


 彼女は一口食べると、目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。


「いいおよめさんになりそうね。悪くないわ……さすが私の娘ね」


 真希は優しく微笑んだ。まるで初めて褒められたかのように。


 小さく頭を下げ、感謝を示す。


「ありがとう、お母さん。その言葉、嬉しい」


 母親は一瞬だけ、はかない笑みを浮かべた。


 ………………………


 夕食を終えると、母親はドアの方へ向かった。


 その意図を察して、俺は声をかける。


「もう遅いですし、よかったら泊まっていきませんか」


 彼女は振り返り、少し驚いたように俺たちを見た。


「本当に? 迷惑じゃない?」


 真希は嬉しそうにうなずいた。


「私の部屋で寝ていいよ。私は慧翔くんの部屋で寝るから」


「え……私が?……ああ、そうさせてもらうわ。今夜だけ、お願いするわね」


 母親は観念したように小さく息をつき、こちらへ戻ってきた。


「分かったわ。泊まらせてもらう。どうせ今夜だけだしね」


 * * *


 夜はけていった。


 彼女はぽつぽつと話し始めた。特に俺に向けて、真希のことを。


 学校での様子――いつもどこか孤立していたこと。


 その言葉の端々《はしばし》には、わずかな罪悪感がにじんでいた。


 もしかしたら――彼女をずっと一人にしてしまったことを、後悔こうかいしているのかもしれない。


 真希は、それを知っているのだろうか。


 ソファで隣に目をやる。


 彼女は俺の肩にもたれかかり、静かに眠っていた。


「……自分の昔話なんて聞かされて、寝ちゃったみたいね。もう寝る時間だわ」


 その繊細せんさいな寝顔を見ていると、このまま休ませてやりたくなる。


 だが、もう遅かった。


 母親は立ち上がり、真希の部屋へと向かっていく。


「もう遅いわ。また明日ね。おやすみなさい」


 そう言って部屋に入り、静かにドアを閉めた。


 ……起こして、ベッドまで連れていかないと。


 一人でいろいろかかえてきたんだろう。いつか話してくれるかもしれない。


 毎日、少しずつ彼女に惹かれていく――そして今、この瞬間、リビングで二人きりの状況はなおさらだ。


 こんなところで立ち止まっている場合じゃない。


 彼女をそっと抱き上げ、腕の中に収める。


 ふわりと香る髪の匂いに、意識が揺らいだ。


 真希……お前……


 このままじゃ、本気で好きになってしまう。


 おさえるのが、こんなに難しいなんて思わなかった。


 今までずっと、そんなものに興味はないって言い聞かせてきたのに……結局は、ただ流されていただけだった。


 彼女が去ると言ったあの時、それが一番はっきりした。


 あれが、決定的けっていてきだった。


 ベッドにそっと寝かせ、掛け布団をかける。


「おやすみ」


 部屋を出ようとした、そのとき――


 彼女が、俺の手をつかんだ。


「真希……」


「約束、破るつもり? 慧翔くん」


 思わず息をのむ。


 彼女は俺の手をしっかり握っていて、鼓動こどうが早まる。


 一人で寝たくない気持ちもあった……けど、それ以上に、何かしてしまいそうな自分が怖かった。


「寝なさい。お母さんに言ったでしょ。守らなかったら許さないから」


 少し間を置いて、顔を赤らめる。


「……私も、許さないから」


 深呼吸して、俺はうなずいた。


「……分かった。そうするよ。もし何かあったら、先に謝っとく」


(寝相が悪いしな……何か起きるかもしれない)


 彼女の隣に横になる。


 掛け布団の中で、彼女はまだ俺の手を握っていた。


 まるで、本当に恋人同士みたいに。


 何も言わなかった。


 ……俺も、離したくなかった。


 坂本さんに興味がない理由があるとすれば――それは、目の前の彼女だ。


 けど……まだ早い。


 こんな感情が形になるには、早すぎる。


「……確認したいだけだ。本当に、それでいいのか?」


 彼女は小さくうなずいた。顔を真っ赤にしたまま。


「だって……このベッド、広いし」


 俺も、うなずいた。


 どうせもう隣にいるし……それに、手を離したくなかった。


 静かに目を閉じる。


 気づけば――眠りに落ちていた。


 二人とも、そのまま眠ってしまった。


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