第33話 思いがけない夜
約束通り……誰かがついてきたみたいだな、坂本さん?
黒川さんと俺は、夕飯と必要な物を買いに街へ出る予定だった。まさか坂本さんに尾行されるとは思わなかったけど。
迷惑ってほどじゃない。ただ、知り合いに不審者みたいに尾行されるのは、なんとも言えない気分だった。
立ち止まると、もう気づかれてると悟ったのか、彼女がどれだけ恥ずかしがっているかがはっきり見えた。
雨宮とはさっき別れたけど、彼女はそうじゃなかったらしい。
そういえば……
「何か見せたいんだろ? せっかくだし、今見せてくれないか?」
彼女はまだ恥ずかしそうにうなずいた。
「うん……小説の最新イラストなんだけど……邪魔してごめんね。今話すには遅いし、また別の日にしたほうがいいよね」
軽く笑って首を振る。
「今でいいよ。後回しにするのはよくない」
黒川さんに視線を向けて、返事を待つ。彼女は察したようにうなずいた。
「うん、いいと思う。それに、三人でどこか入って何か飲まない? 次の小説のアイデアもまとめられそうだし」
坂本さんの目がぱっと輝いて、黒川さんに駆け寄って抱きついた。
「ありがとう、真希ちゃん〜大好き〜」
黒川さんは少し戸惑っていたけど、それを見て、二人が仲直りできてよかったと思った。
二人の視線は柔らかくなっていて、そのせいか空気も穏やかに感じられた。
「ところで、何かあったのか? なんかお互い、機嫌悪そうに見えたけど」
二人は顔を見合わせ、答える前に言葉を探しているようだった。
「私たち? 気のせいでしょ。ちゃんと寝てないんじゃない?」黒川さんはいつもの冷たい目で言った。
疑いは残ったけど、それでも一言だけ言っておくことにした。
「嘘ついてるのはわかってるし、言いたくないのもわかる。でも言わせてくれ。くだらないことで離れないでほしい。仲いいんだから、そんなことで喧嘩するなよ」
二人はうつむいて、真剣に聞いていた。
それから、同時にうなずく。
「そうだね、つまらないことで喧嘩するべきじゃなかった。ごめんね、真昼ちゃん」
「私もごめんね、真希ちゃん」
そう言って、また抱き合った。
本当に姉妹みたいだ。
黒川さんにこんなに仲のいい相手がいるのは、少し羨ましい気もする。
やがて離れて、二人で小声で話し始めた。
何を話しているかまでは聞こえなかったけど、少なくとも元通りにはなったみたいだ。
三人でそのまま歩き続けた……つもりだった。
しばらくして、たどり着いたのは――
「なんで本屋の前なんだ?」
思わず二人に聞いた。
すると坂本さんは、どこか誇らしげに笑った。
「お兄さんが、和泉くんに読んでほしい本があるから、感想を聞きたいって」
あの人が俺に頼みごと……か。変ではあるけど、会った時点で予想はできた。どうせ断れない。
「私たちが何してるか話したら、和泉くんの意見が聞きたいって。巻き込んじゃってごめんね」
彼女は申し訳なさそうにうつむいた。
「まあ、入ろう。せっかくだし、その本買うか」
二人はうなずいて、中に入った。
店内に入って、参考になりそうなライトノベルも何冊か見ておこうと思った。
悪くない判断だし、黒川さんも同じことを考えていたらしい。
当然か……雨宮にああ言われた以上、少しはやるしかない。
しばらくして、一冊だけ選んでレジに向かった。小説だと思っていたが、実際は漫画だった。
……なるほど、あいつがああなるわけだ。
ずっと部屋にこもってるのも納得だ。まあ、親はそれを望んでないらしいけど。
結局、坂本さんと別れて、黒川さんと俺は部屋に戻った。
「疲れた……なんか、いつもより疲れた気がする」
一日中考えっぱなしだったし、それにこれだ……
「帰ったらゆっくり休めるよ。私も疲れてるし、あなただけじゃない」
同時にため息をついた。
仕方ない……ここまで疲れてると、今日は連携どころじゃない。
* * *
部屋に着いて、シャワーを浴びて宿題を終わらせてから、ベッドにダイブした。
「やっと……休める。今日は意味わかんない一日だった」
独り言のように呟く。
スマホを取り出して、黒川さんを庇ったあの投稿を開いた。
あの日から、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。
もし出会ってなかったら、どうなっていたんだろう。
想像するのは難しい……でも――
「ちょっと外、出るか」
ベッドから起き上がって、ベランダへ向かった。
さっきまで話していた黒川さんは、何事もなかったかのように夕飯を作っていた。
「どこ行くの? もうすぐできるよ」
「ちょっと外にいる。できたら呼んでくれ」
彼女はうなずいて、料理に戻った。
ドアを開けてベランダに出る。ぼんやり空を見上げながら、考えた。
「そういえば……宏に頼まれた漫画、読まないとな」
小さく呟く。
その時、誰かがエレベーターから降りてきた。
見たことのない人だ。新しい住人か?
三十代半ばくらいの女性で、どこか見覚えのある顔立ちだった。
フォーマルな服装で、どこか冷たい表情をしている。
そのまま横を通り過ぎた。挨拶しようとしたが、声が出なかった。
彼女は隣の部屋の前で立ち止まり、ノックして、じっと返事を待っている。
数分経って、さすがに声をかけるべきだと思った。
「そこ、誰も住んでませんよ。もう二ヶ月近く前に引っ越しました」
女性は、その冷たい目でこちらを見て、ゆっくり近づいてきた。
スタイルが良くて、一瞬、新卒かと思ったくらいだ。
……いや、待て。
「あそこに住んでた人、知ってるんですか?」
女性はタバコを取り出し、ポケットからライターで火をつけた。
煙を吐いて、少しだけ力を抜いたように、壁にもたれかかる。
さっきまでノックしていたドアの横で、空を見上げた。
「私の娘よ。あの子、ここに住んでたの。小説を書けば、幸せもお金も安定も手に入るなんて……甘いのよ」
冷たく、どこか疲れた声だった。
間違いない……誰のことか分かった。
でも、今はうちにいるなんて言わない方がいい。
何か言う前に、彼女は続けた。
「精神的にまだ子供なのよ……もうすぐ十六歳で、高校二年になるっていうのに」
あそこまで夢に厳しい家族だとは思わなかった。
将来を応援してくれるうちとは、正反対だ。
……十六歳か。俺より少し上だな。
「大人でも分からないことってありますよ。娘さんと、ちゃんと話したほうがいいんじゃないですか」
タバコの煙が揺れる中で、そう言った。
彼女はエレベーターの方へ歩き出し、途中で足を止めた。
「行く前に……いつ引っ越したのか、どこに行ったのか、知ってる?」
庇わないといけない。バレたくない……それに、今同じ場所に住んでることも。
「いえ、知りません。気づいた時には、もう空でした」
真面目な顔で答えた。
その時――
ちょうど、うちのドアが開いた。
黒川さんがエプロン姿で、いたずらっぽい笑みを浮かべて顔を出す。
「慧翔くん〜、ご飯できたよ〜♡」
……間違いなく、あいつなりのからかいだ。
でも今は――完全にまずい。




