第32話 真希の味方
授業はあっという間に終わった。今日は夕飯を買わないといけないし、黒川さんと一緒に帰るのは難しそうだ。
そのとき、スマホが震えた。黒川さんからの着信だった。
「ねえ、ちょっと会えない? 話したいことがあるの。それに、今日は買い物もしたいし」
「え?……ああ、わかった。でも急いでくれよ。もう入口に――」
言い終わる前に、入口で待っている彼女の姿が目に入った。
通話したまま、慌てて髪を整えている。
かなり急いでいるみたいで、坂本さんの姿は見えなかった。
通話を切る前に、坂本さんからメッセージが届いた。
「どこにいるの? 今日、家に来ない? 母さんいないし、お兄ちゃんも忙しいみたいで」
返信する前に、またメッセージが届く。
「この前描いたイラスト、見てほしいんだ。変な意味じゃないから……」
さらに、間髪入れずにもう一通。
「真希ちゃんには言わないで。二人きりがいいの」
え……坂本さん?
考える暇もない。どうすればいいのかもわからない。面倒なことになった。今日の二人、どうかしてるだろ。
ただ小説を書いて、終わらせて、静かに寝たいだけなのに。
頭の中がぐちゃぐちゃで、ただ休みたかった。
「彼女と揉めてるんすか?」
クラスメイトの声が、思考を遮る。
「彼女なんていないよ」ついでに、さっきのことも聞いてみる。「それより、なんで俺が『蓮司』だって知ってるんだ?」
そいつは、読めないがどこかからかうような笑みを浮かべた。
「なんとなくっすよ。まあ、強いて言うなら、小説を書き始めた頃からの付き合いって感じっすかね」
心当たりは一人しかいない。
三年連続でトップを取り、いくつもの賞を受賞し、ライトノベルのオファーまで受けた。
あらゆる意味で天才だ。その名前は――
「……天邪鬼先生、ですよね?」
そいつは勝ち誇ったように笑った。
「正解っす。でも、ちょっと寂しいっすね。名前で呼んでくれないんすか? 雨宮快人っす。覚えてないっすか?」
俺は、黒川さんや坂本さんみたいに毎日顔を合わせる相手以外は、あまり覚えないタイプだ。
あの二人だけが例外だった。
「悪い、覚えてなかった。正直あんまり――」
「はいはい、知ってますよ。初めて会ったときに言ってましたし。あの日、忙しかったじゃないすか」
こいつの態度は、人によってはうざいと思うかもしれないが、もう慣れている。
そこへ、黒川さんが近づいてきた。
「知り合い?」
珍しく好奇心を隠さず、俺たちの前に回り込んでくる。
「おや、その子があんたの好きな人?」
からかうような口調だった。
彼女は冷たい声で振り返った。
「ありえないでしょ。そんなわけないって思ってるけど」俺の言葉を遮るように言った。
「違うよ、ただの友達だ。少なくとも今は、そういう目で見てない」
黒川さんは何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。しばらく口を開きかけては閉じるのを繰り返し、結局そのまま俺たちから離れていった。
「入口で待ってるから、変な話はやめて」
どう考えても……やっぱりよくわからない。
「彼は『マヤカシ』先生だ」
その名前を聞いた瞬間、彼女の顔色が変わった。そして、ゆっくりとこちらを振り向く。
「『マヤカシ』先生? 私の小説を、自分が書いたみたいにボロクソに批評したあのバカのこと?」
雨宮は俺の後ろに隠れ、わざとらしく無垢なふりをした。
「いやいや、ただ助けたかっただけでさ。気分を悪くさせるつもりはなかったんだよ。あ……」そこで言葉を切り、彼女をじっと見つめた。「あかりちゃんにしかしてなかったはずなんだけど……なるほど、そういうことか。あんただったのか」
黒川さんは怒りを抑えながらも、何かを思いついたのか、それ以上は追及しなかった。
「そうよ、私よ。で、あんなことしたんだから、一つ貸しね」
「貸し? いいよ、何してほしい?」彼はいつもの調子で彼女に近づく。「彼を落とすアドバイスでもいいよ?」
彼女の顔がまた赤くなり、否定しようとしたが、うまく言葉にならなかった。
「それは違う……もしそうなら、二つ貸しね」
彼は肩をすくめて、一歩下がった。
「ところで、和泉。あんたがあの子を庇ったとき、めっちゃカッコよかったぞ。まるでラブコメの主人公みたいだった。ふふ」
何のことかは、だいたい察しがつく。こいつが今までのことを見ていたのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。
まあ、Xで騒ぎになってたんだし、知らないはずがないか。
「まあいいや」彼が耳元に近づく。「頑張れよ、タイガー」
わざとらしく、黒川さんにも聞こえる声だった。
彼女はどうしていいかわからないのか、その場に立ち尽くし、俺の反応を待っている。
「だから誤解だって言ってるだろ……まあいい。それより、お前の助けが必要なんだ」
彼は興味深そうにこちらを見て、いつもの調子のままうなずいた。
「何の話?」
深呼吸する。
「お前の意見が聞きたい。彼女の話について」
「え?……」 「え?……」
「雨宮なら、今どんな感じか判断できるだろ。それに、お前、もう彼女にボロクソ言われてるし」
「ふふ……俺は気にしないよ。むしろ、もっと良くしてやれるしな」
彼女は戸惑いながらも、最後には小さくうなずいた。まだ迷いはあるみたいだったが。
「じゃあ……いつやるの?」
雨宮はポケットから小さなサイコロを取り出し、軽く放り投げた。
出た目は――六。
「いいっすね。土日どっちかで。二人はどうっすか?」
俺は雨宮の耳元に近づき、小声で説明した。
「今週末、黒川さんと俺は……その……」
言い終わる前に、あいつが先回りした。
「なるほどね。クラス公認のおしどりカップルはデートってわけか。そう言ってくれればよかったのに、タイガー」
そう言って、軽く背中を叩いてきた。
二人とも気まずかった。特に彼女は、雨宮に標的にされて、さらに居心地が悪そうだった。
「和泉くん!」
遠くから声がして、こちらへ向かってくる。
だが、途中で足を止めた。何かに気づいたらしい。
見慣れない茶髪の男――雨宮に、視線が釘付けになっている。
「ああ、そうだ。まだ紹介してなかったな。こいつはクラスメイトの雨宮快人」
何か言う前に、雨宮は彼女をじっと観察し始めた。
髪、目つき……そして足元まで。まるで品定めするみたいに。
「なるほどなるほど〜」独り言のように呟く。「そういうことか。あんたが負けヒロインってわけね」
あまりに失礼な結論に、一瞬、紹介したことを後悔した。
だが坂本さんは引かず、無視するように自己紹介をした。
「坂本真昼です。本当は『よろしく』って言いたいけど……無理そうね」
雨宮はくすりと笑った。面白い玩具でも見つけたみたいに。
「ああ、そうだ。こいつはマヤカシ先生で――」
言い終わる前に、彼女が俺の言葉を遮った。さっきまでの侮蔑の視線が消える。
「まさか……本当にあんたがマヤカシ先生なの? 信じられない」
雨宮は怒るどころか、むしろ誇らしげに笑った。
「でも……なんで急に姿を消したの? あんたの小説、海外でも評価高かったのに。新作を待ってる人、いっぱいいたんだよ」
雨宮は何も言わず、指を唇に当てて、これ以上は聞くなとでも言うように微笑んだ。
「ちょっと離れてただけだよ。やることがあったからさ」
その笑顔の奥に、何かを隠している気がした。
「それに、そろそろ王座を譲る頃合いだったしね。ははは」
彼女の中にあったわずかな同情も、そこで消えたらしい。
「面倒な人ね。本当にそんなに面白いの?」坂本さんが呟く。
「誰かを思い出すわ」
三人とも一瞬、きょとんとした。特に雨宮は、興味津々といった様子だった。
「本当? 誰っすか?」
一緒に書き始めると決めた日に聞いた、あの曲のキャラの名前が頭に浮かんだ。
けど――やめておく。
「いや、やっぱいい。心にしまっとく。とにかく、始めるのは週末でいいな?」
雨宮はうなずいた。
だが坂本さんは、状況を飲み込めていないまま口を挟む。
「何か、私に隠してることでもあるの?」
「後で話すよ。もう行かないと、やることがあるから」
彼女は小さくうなずいた。
そうして、俺たちはその場で別れた。
同じ方向に向かうのは、黒川さんと俺だけだった。




