第121話 「ノヴェリスト」
* * *
「ただいま」
俺がそう言うと、真希がすぐに迎えに来てくれた。
けれど、その前に小さな足音が全速力で駆け寄ってきた。俺の姿を見るなり、真秀が飛びついてきた。
母親譲りの長い髪に、見ているだけで安心する笑顔。
「パパ、おかえりなさい」
その後ろから、真希も姿を現した。
「おかえりなさい、あなた」
二人の姿を見て、そして自分もその光景の一部になっていることが嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
真希と結婚して六年が経った。これまでのすべてが幸せだったわけじゃない。それでも、振り返れば幸せなことのほうがずっと多かった。それだけで十分だった。
玄関には、結婚式の写真と、その翌年に生まれた真秀の写真が飾られている。名前も真希が考えてくれたものだ。
真希が近づいてきて、俺の疲れた様子に気づいた。
もちろん、会社で働いてきたわけじゃない。今日は出版社に招待されたイベントに、俺と真希の代理として出席しただけだ。
真秀を一人にしておくわけにはいかず、真希は家に残っていた。
「疲れてるみたいね。お風呂、準備するわ」
真希は結婚前の最後の一週間、まるで母さんに導かれるように、少しずつ妻としての心構えを身につけていった。
何をすればいいのかわからないとき、母さんに助言を求めていたというのも、どうやら本当だったらしい。
その甲斐もあって、真希は少しずつ成長していった。そして結婚式を迎える頃には、夫婦として始まる新しい生活に、心の準備ができていた。
「真希」
俺が名前を呼ぶと、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
「なあに、慧翔……じゃなくて、あなた~」
「ありがとう。俺のことを好きになってくれて」
もし俺たちが出会っていなかったら、真希のいない未来がどんなものになっていたのか、想像もつかない。それでも、彼女と出会えたことは、俺の人生で最高の出来事だった。
同じ趣味を楽しみ、互いを理解し合える妻。俺も彼女のことを理解しているし、彼女も俺のことをわかってくれている。そんな関係を築けたことが、何よりも幸せだった。
「私の気持ちを受け入れてくれたのはあなたでしょ? だから、お礼を言うのは私のほうよ」
俺たちは、互いに感謝していた。それは、ごく自然なことだった。
俺たちは二人で幸せに暮らしている。
もう、時間を無駄にはできない。けれど、その前に帰宅のキスを交わし、それから寝室へと向かった。
真希は真秀を自分の部屋へ連れていき、俺は風呂に入った。さすがに疲れていた。
真希はここ数年で、さらに多くの小説を出版していた。どの作品も、以前の作品を上回る人気を集めている。
「慧翔、着替えはここに置いておくわね。お風呂から上がったら、いつもの場所で待ってるから」
「ああ、わかった。上がったら行くよ」
そう答え、風呂から上がった俺は、俺たちの書斎へ向かった。
家の一角にあるその部屋は、執筆に集中するには十分な広さがあった。
ドアを開けると、真希が待っていた。髪を結び、印刷した原稿の束と、俺たちが一緒に書き上げた小説の最終巻を手にしている。
「遅かったわね、あなた。これについて、意見を聞かせてほしいの」
彼女が画面に表示された原稿を見せてきたので、俺は読み始めた。
興味を引かれる展開がいくつもあった。このミステリー小説は、最初に読んだときに想像していたよりも、ずっと面白くなっている。
発売当初から売上は好調だったが、今月の数字は異常なほどだった。まだ三巻しか出ていないのに、すでに漫画化が進んでおり、数週間前にはアニメ化も決定した。
真希の物語には、毎回驚かされる。それに、巻を重ねるごとに面白さが増している。
余計なことは考えず、俺は彼女の書いた原稿を読み進めた。いくつかミスはあったものの、彼女のタイピングの速さにはもう慣れている。
「すごくいいよ。かなり気に入った。でも、いつものように誤字以外にも直したほうがいいところはあるな」
真希は後ろから俺を抱きしめ、からかうような笑みを浮かべた。
「わかってる。いつも同じこと言うよね。まあ、時間があるときに直してくれればいいよ」
「今からでも大丈夫だよ。別に構わないし、それほど疲れてもいないからな。あ、そうだ。真昼さんとはもう話した?」
「もちろん。それに、思ったとおり、もう小説の挿絵も彼女にお願いしたわ。最近すごく人気が出て、ほかの作家からの依頼は断ってるみたいなの」
「俺たち専属のイラストレーターだってことを、誇りに思ってもいいよな?」
真希は微笑んでうなずいた。
「ねえ、私たちが付き合い始めた頃、考えたことがあるの」
「何をだ?」
俺はそう尋ね、茶を一口飲もうとした。
「あの頃、三人で付き合うのもありなんじゃないかって考えたの」
その言葉を聞いた瞬間、俺は危うく茶を吹き出しそうになった。
「どうしてそんなことを思いついたんだ?」
「……だって、そういう小説があるでしょ? 主人公のためにヒロインたちが一緒になる話。だから、私も同じことをしてみようかなって」
この女は……。
「そんな目で見ないで。私はただ、二人とも幸せになれたらいいなって思っただけ。でも……彼女は、自分の勝ちをわざわざ分け合う必要はないって言ったの」
まさか、本人にまでそんなことを言っていたとは……。
「真希、俺はハーレムが好きなタイプじゃないんだ。真昼さんがそう言ってくれてよかったよ」
「……変わってるね。普通の男なら喜ぶと思うけど。真昼ちゃんだって、あなたなら喜ぶんじゃないかって言ってたし、だから言わないほうがいいって止めてくれたのに」
まったく、相変わらず変なことばかり考える。真昼にまだ恋人がいないのも、なんとなく納得できる気がした。
「それでも断るけどな。とにかく、彼女が断ってくれてよかったよ」
真希は自分のノートパソコンの前に座った。
彼女は本当に書くことに飽きない。自分の物語のために昼夜を問わず努力する人間がいるとしたら、真希は間違いなく俺の中で一番だ。
「さて、その話はもうおしまい。先に進まないと。遅れるのは嫌いでしょ? わかってるよね」
「自分の妻のことはよくわかってるさ。遅れたりしないよ。始めよう」
「もしわかってなかったら、お仕置きしてたところよ」
真希は笑いながら答えた。
俺は微笑み、これまでのことを思い返した。
そう、これこそが――。
「間違いなく、俺たち『ノヴェリスト』のやるべきことだ」




