第117話 異世界の『賢者』
残念ながら、彼女の連絡先は知らなかった。授業に来るのを待つしかない。
「明日、彼の彼女のことについて聞いてみるべきかな?」
「そうかもな。聞いてみる価値はあるだろ?」
彼女は迷わずうなずいた。結局、俺たち二人とも好奇心には勝てなかったらしい。真希が起きていたとしても、きっと同じことを言っただろう。
よし、そろそろ寝るか。
「この話は明日にしよう。いいか?」
彼女は少し不思議そうな様子だったが、俺をこれ以上電話に引き留めておくわけにもいかないとわかっていたのだろう。特に反論することもなく、あっさりと了承した。
「わかった。ゆっくり休んでね。真希ちゃんのことは、本人が自分から話してくれるのを待つことにする。それまでは、彼女には何も言わないで。いい?」
「それがいいと思う。じゃあ、黙っておくよ」
そうして電話を切った。今は夕飯をゆっくり食べて、それから休むことにしよう。
* * *
夜が明けた。とはいえ、予想していたとおり、自然に目が覚めたわけではない。ドアを叩く音で起こされたのだ。
そして、ドアの向こうにいたのは、他でもない真希だった。
出来たての朝食のいい匂いが漂ってくる。どうやら、昨夜言っていたことをそのまま実行したらしい。けれど、一つ気になることがあった。
昨日の分のエピソード、ちゃんと投稿したんだろうか?
それに、コンテストに参加するためのタグも追加したのか?
ちょうど今、それを確認しようと思っていたところだった。
ドアを開けたものの、真希はもうそこにはいなかった。どうやら、すでにキッチンへ戻り、お弁当作りに取りかかっていたらしい。手際よく、ひとつひとつ丁寧に詰めている。
どうやら真希は、一度やると決めたことには全力で取り組むタイプらしい。小説に限った話じゃないんだな……。
「『おはよう』でしょ」
彼女は俺のほうを見ないまま、そう言った。
もちろん、そんな姿を見せられては、挨拶することすら忘れそうになる。
「おはよう、真希。よく眠れたみたいだな」
「うん。でも、夜中にエピソードを投稿してなかったことを思い出して、慌てて公開したの。前の分はもう編集まで終わってたから、タイトルを考えただけ。それで終わり」
真希は、いつもそこまできちんと考えている。小説を書くだけでなく、投稿するタイミングや細かい設定まで、ちゃんと気にかけているらしい。
「お前はいつも先のことまで考えてるんだな。次からは俺に任せてくれてもいいのに」
真希は少し素っ気ない態度を崩さなかったが、その口元には、どこか意味ありげな笑みが浮かんでいた。
「あなたにできるとは思えないけど」
……見下されてる。
いや、でも、反論できないのがつらいところだ。それに、実際のところ、こうした作業については彼女のほうがずっと詳しい。この調子だと、俺は第二の書き手というより、編集者みたいな立場になりそうだ。
「ほら、お風呂に入ってきなさい。着替えないと、学校に遅刻する前に出発できないよ」
真希はそう言って、俺を急かした。
これ以上あれこれ考えていても仕方がない。俺は素直に従うことにした。朝食は、ひとまず後回しだ。
* * *
また今日も、学校へ向かう道すがら、真希と手をつないで歩いていた。以前とは違い、彼女の足取りは穏やかだった。まるで、こうして一緒に歩くことにも慣れたかのように。今では、それが当たり前になりつつあるのかもしれない。
付き合い始めた初日から、周囲の視線が俺たちに集まるのは変わらなかった。今でも、信じられないといった様子でこちらを見てくる人もいれば、特に気に留めていない人もいる。
二年生になってから、何も変わっていないような気がする。もちろん、まだそれほど時間が経ったわけではない。それでも、自分が少しずつ大人になっていくことを、まだうまく受け止められずにいた。
「真希ちゃ〜ん!」
その声は……。
真希が振り返ると、坂本さんは近づくなり彼女に抱きついた。
「真昼ちゃん……すごく会いたかった」
その甘い言葉に、坂本さんは嬉しそうに顔をほころばせた。
「よっぽど私に会いたかったみたいだね。あ、和泉くん、真夜ちゃんはどうしたの?」
彼女は、真夜が昨日帰ったことを知っているはずだ。それとも、まだ帰っていないことを期待していたのだろうか。
「当然、昨日帰ったよ。それに、こっちに長居する時間もなかったし。夏休みにまた来るか、俺たちが会いに行くかだな」
口には出せない疑問がある。いつからこんなに仲良くなったんだ? 女同士って、こんなにすぐ打ち解けるものなのか?
くそ……
「じゃあ、夏に行くの?」
「『行く』って……それは真夜と真希に聞いてくれ。それに、母さんが真希以外の子まで泊めてくれるかどうかもわからないし」
彼女はすぐに俺の言いたいことを察したものの、周囲に聞こえる声の大きさを気にせず言った。
「さすがね。何しろ婚約者だもんね。あ、ごめん、声大きかった?」
もう遅かった。周囲の人たちは驚きのあまり、どう反応すればいいのかわからない様子だった。
この調子じゃ、学校中から睨まれるな。まあ、真希と一緒にいるのは初めてじゃないし、脅されるようなことはないだろうけど。
「わざわざ大げさに言う必要なかっただろ。もうとっくに話してあるんだから」
「大げさじゃないよ」
彼女は腕を組み、真剣な、それでいて少し不機嫌そうな顔で言った。
「あの時、二人は『もしかしたら婚約するかも』って言ったの。つまり、可能性はあるってことだったんでしょ?」
反論できなかった。彼女の言う通りだ。だから、降参するしかない。だが、俺が何か言う前に、彼女は続けた。
「それに、これで誰も二人にちょっかい出せないでしょ。婚約してるなら、もうどうしようもないじゃない?」
真希も俺も、彼女の言葉を思い返しただけで顔が熱くなった。けれど同時に、その考えも悪くないと思ってしまった。
もう、怖がることなんて何もない。
周囲の視線だって気にする必要はない。これからは、みんなの前でも二人で堂々と一緒にいられる。
結局、悪くないのかもしれない。
「おい、いつまでも突っ立ってないで、門が閉まる前に中に入るぞ」
彼女の言う通りだ。俺は真希の手を取って、校舎へ向かった。
* * *
◇◆◇◆◇
「ついにこの日が来ちゃったかぁ……ま、ここに居合わせられたのは、なかなか楽しかったけどね」
僕は、ひとりでそう呟いた。
いやぁ、今回は僕も頑張ったんだよ? ちゃんと最後までやり遂げたし。これなら、僕の作品を読んだみんなも、きっと嫉妬しちゃうんじゃないかな〜。
……なんてね。まあ、結構本気で書いたのは本当だけど。わかる? この力の入れよう。
ラブコメのつもりで始めたわけじゃなかったんだけどなぁ。気づいたら、いつの間にかこんなことになっちゃって。今なら和泉の言ってたこともわかる気がするよ。「キャラクターが勝手に動く」ってやつ。あれ、案外嘘じゃないんだねぇ。
……ま、だからこそ困るんだけど。
自分で書いてる小説のことを考えるとさ、和泉がみんなに会った時、いったいどれだけ質問攻めにされるんだろうね? あははっ、ちょっと見てみたいかも。本人にとっては、たまったもんじゃないだろうけど。
それに、黒川さんが信号を見ずに車に轢かれそうになった時のことを思い出すと、あの二人のことまで浮かんでくるんだよねぇ……。いやぁ、懐かしいなぁ。ほんと、いろいろあったよね。
……さて、と。そろそろ出発しようかな。手遅れになる前にね。
でも、その前にもう一度みんなに会っておくべきかなぁ。うーん、どうしよっか。最後くらい顔を見ておきたい気もするし、今さら会いに行くのも、なんだかねぇ。
ああ、そうそう。やることはまだまだ山積みなんだよ。リストを見てるだけで眠くなってくるくらい。いや、ほんと、誰だよこんなに仕事を増やしたの。……僕か。あははっ。
でも、彼女の言葉だけは無視できないんだよねぇ。
『さっさとしなさいよ。じゃないと、美咲ちゃんに会わせないからね』
……いやいや、怖い怖い。女の人って、どうしてこういう時だけ妙に容赦がないんだろうね? 脅し文句まで完璧なんだから、参っちゃうよ。
ま、これじゃ逃げ道もないか。
どうやら、いつかはみんなに別れを告げなきゃいけないみたいだねぇ。……いつになるかは、まだ内緒だけど。
それまでは、もうちょっとだけ付き合ってもらおうかな。
だって、僕、嘘はついてないからね?
……くくっ。




