第116話 今さらの彼女紹介 2
俺は真希に、父親と電話で話した内容を一通り説明した。そして、もし両親と会って話す気になったら、そのときはまた一緒に考えようと伝えた。
今朝のことを思えば、この話題に触れるのが彼女にとってどれほどつらいか、俺にも想像がついた。それでも、いつかは両親と向き合わなければならないことを、真希自身もわかっているのだろう。
ただ、頭で理解することと、実際に行動に移すことは別だ。もう一度向き合ったところで、また傷つけられるかもしれない。そう考えれば、不安を感じるのも当然だった。
「わかった。でも、話を聞くだけだから。許すつもりはないよ。少なくとも、今はね」
「それでいいと思う。仮にそういう結果になったとしても、向こうだって受け入れるしかないだろうし」
無理に答えを出す必要はない。今はただ、話を聞く機会を作る。それが、俺たちなりに出した結論だった。
話が終わると、真希はそれ以上何も言わず、自分の部屋へ向かった。もう話すことはない、とでも言いたげな様子だ。
……いや、単純に眠いだけかもしれない。
真希の性格を考えれば、そちらのほうがしっくりくる。もっとも、どちらにしても、今はそっとしておいたほうがよさそうだった。
「私、もう寝るね。先に言っておくけど、お腹は空いてないから。明日は早起きしなきゃいけないんだし、あなたもちゃんと寝てよ」
「……夕飯、何か作ってもいいか?」
「写真を送ってきて、私までお腹が空くようなことさえしなければ、別にいいよ」
……相変わらず、素っ気ない。
まあ、彼女が俺の恋人になったからといって、いつでも優しくしてくれるわけじゃない。それくらい、最初からわかっていたことだ。
きっと、今日は疲れているんだろう。
真希は部屋に入ると、そのまま内側から鍵をかけた。ドアの向こうからは、もう何の物音もしない。さっきまで同じ空間にいたはずなのに、扉一枚を隔てただけで、急に静けさが増したような気がした。
こうして一人になると、さっきまでの出来事が少しずつ頭の中によみがえってくる。今日は本当に、いろいろなことがあった。
「……まあ、何か作るか」
真希の分も用意しておこうかと一瞬迷ったものの、さっきのやり取りを思い出してやめた。本人がいらないと言っているのだから、無理に用意する必要もないだろう。
そうして、俺はキッチンへ向かった。
……いや、そもそも夕飯を作るなら、もっと早く動くべきだったな。
ふと窓の外に目を向け、思わず苦笑した。
まだ夜になったばかりで、外には街の明かりがちらほらと灯り始めたところだった。夕食を作るには、決して遅すぎる時間ではない。むしろ、普通に考えればちょうどいいくらいだ。
それなのに、今日は一日が長すぎたせいか、すっかり夜更けのような気分になっていた。朝から次々といろいろなことが起こり、気持ちを落ち着ける暇もなかったのだから、無理もないのかもしれない。
「……くそ。今日は本当に疲れたな」
小さく息を吐き、冷蔵庫を開ける。
けれど、頭の片隅には、どうしても気になることが残っていた。
……そういえば。
真希と結婚することについて、両親からの許可はもう得ているんだよな。
改めて考えると、とんでもない話だ。
まだ若い俺たちが、将来の結婚まで約束している。もちろん、今は本気でも、これから先ずっと同じ気持ちでいられるとは限らない。
何年か経てば、考え方が変わることだってあるだろう。些細なことで喧嘩をして、どうしても分かり合えなくなる可能性だってある。
……もし、そうなったらどうするんだ?
考え始めると、次から次へと不安が浮かんでくる。まだ起きてもいないことを心配したところで仕方がない。頭ではそうわかっていても、一度気になり始めると、なかなか考えを止められなかった。
けれど、そこでふと思い出した。
「そういえば、『二人が納得していないなら、婚約は解消できる』って言ってたよな……」
つまり、結婚する前にどちらかの気持ちが変わったとしても、無理に一緒にいる必要はないということだ。
そう考えれば、少しは気が楽になった。
もちろん、婚約した以上、軽い気持ちで決めたことにするつもりはない。それでも、互いの気持ちが変わったときに、きちんと話し合ったうえで別の道を選べるのなら……それはそれで、大切なことなのかもしれない。
大事なのは、どんな未来が待っているかを今から決めつけることじゃない。これから先、何かが変わったとしても、そのときの自分たちの気持ちから目をそらさず、二人で向き合えるかどうかだ。
二十歳で結婚すると考えれば、それまでにあと三年はある。その間にお互いをもっと知って、少しずつ関係を深めていけばいい。
……うん。それで十分じゃないか?
今から何もかも心配していたら、きりがない。
「……まあ、今は考えるのをやめよう。まずは夕飯だ」
そう自分に言い聞かせ、調理に取りかかろうとした、そのときだった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
取り出して画面を見ると、着信相手は坂本さんだった。
……こんな時間に電話なんて、珍しいな。
スマートフォンはマナーモードにしていたため、着信音は鳴っていなかった。料理を始める前に気づけたのは幸いだった。
俺はそのまま通話に応じた。
『今日はどうだった?』
電話に出るなり、坂本さんは挨拶もそこそこに尋ねてきた。
……相変わらず、単刀直入だな。
別に隠すようなことはない。ただ、何から何まで話す必要もないだろう。とりあえず、今日あったことを簡単に説明して、もっと詳しく知りたいなら真希本人に聞いてもらえばいい。
『うまくいったとは思うけど、期待どおりだったかと言われると、微妙なところかな』
『えっ、どういうこと? もしかして、未来の旦那さんとして認めてもらえなかったの~?』
……おい。
さっきまでの真面目な口調はどこへ行ったんだ。
俺が少し言葉を濁したせいか、坂本さんはすぐに面白がるような声を出した。どうやら、ここぞとばかりに俺をからかうつもりらしい。
まあ、否定するほどのことでもないか。
俺は苦笑しながら夕飯の準備を始めた。包丁を手に取り、材料をまな板の上に並べながら、今日あったことを順番に説明していく。
真希の父親から電話があったこと。日曜日に会って話す機会を作ることになったこと。そして、最終的に許すかどうかは真希自身が決めること。
必要なことだけを選んで話したが、坂本さんは途中で口を挟むことなく、静かに聞いていた。
いつものような笑い声も、茶化すような相槌もない。
だからこそ、彼女が真剣に話を聞いているのが伝わってきた。
……まあ、全部話すわけにはいかないけどな。
彼女がもっと詳しく知りたがる前に、俺は先回りして釘を刺した。
「それ以上知りたかったら、真希に直接聞いてくれ」
「ちっ、ケチ!」
坂本さんは、わざとらしく不満そうな声を上げた。
「ケチじゃないって。ただ、真希が自分から話したいと思うなら、本人の口から聞いてほしいんだ。それだけだよ」
真希の過去は、俺が勝手に誰かへ話していいことじゃない。たとえ相手が坂本さんであっても、それは変わらない。
彼女が自分の意思で話すと決めたのなら、俺が止める理由はない。けれど、話すかどうかを決める権利は、あくまで真希自身にある。
電話の向こうで、坂本さんは少し黙り込んだ。
「……真希、私に自分の過去を話してくれるかな?」
その声には、先ほどまでのふざけた調子はなかった。
……何をそんなに心配しているんだか。
もちろん、真希が必ず話してくれると断言できるわけじゃない。過去のことを思い出したくない日だってあるだろうし、誰にも話したくないことだってあるはずだ。
それでも、最初から諦める必要はない。
二人は、ただの知り合いじゃない。姉妹のように親しい関係なのだから、話してみれば、案外すんなりと受け入れてもらえるかもしれない。
「諦める前に、一度聞いてみればいいだろ」
「……ほんと、ひどいな~。でも、そうだね。とりあえず聞いてみる」
「うん。それがいいと思う。……さて、俺は明日も早いし、そろそろ寝る準備をしないとな。君も夜更かしするなよ」
「ちょっと待って、待って! あと一つだけ聞きたいことがあるの!」
突然、坂本さんが慌てたような声を上げた。
……まだあるのかよ。
あまりにも必死な様子だったので、思わず手を止めた。どうやら、これを聞くまでは電話を切るつもりがないらしい。
「何だよ? そんなに大声を出さなくても聞こえてるって」
「雨宮くんのことなんだけど……」
……雨宮?
その名前を聞いた途端、今朝の出来事が頭をよぎった。
そういえば、あいつは今朝、あの辺りで何をしていたんだろう。
まさか、あそこに住んでいるのか?
いや、可能性がないわけじゃないが、今の段階では何とも言えない。
それより、坂本さんは雨宮について何を話そうとしているんだ?
「雨宮がどうかしたのか?」
「えっと……噂で聞いただけだから、どこまで本当なのかはわからないんだけど……」
「噂?」
嫌な予感がした。
坂本さんがわざわざこんな時間に電話をかけてきてまで話すことなのだから、よほど気になる内容なのだろう。
俺は包丁を置き、彼女の話に耳を傾けた。
「雨宮くん、後輩の女の子から告白されたのに、断ったらしいの。少なくとも、私はそう聞いたんだけど……」
「……断った?」
思わず聞き返してしまった。
あの猫みたいな顔をした男に、告白してくる相手がいたこと自体は別に不思議じゃない。むしろ、あいつのことだから、そういう話の一つや二つくらいあってもおかしくはないだろう。
でも、断ったのか?
あいつに、好きな相手でもいたんだろうか。
「それ、いつの話なんだ? あいつ……」
「今日聞いたんだけど、実際にあったのは金曜日みたい。それでね、一番変なのは、そのあとも何もなかったみたいにしてることなんだよ」
「……何もなかったみたいに?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は昨日の出来事を思い出した。
雨宮は、あのとき確かに『彼女』のことを自慢していた。
……なるほど。
頭の中で、いくつかの可能性がつながり始めた。
告白を断った理由が、すでに付き合っている相手がいるからなのか。それとも、そもそも誰とも付き合うつもりがないのか。
あるいは、坂本さんが聞いた噂そのものに、何か誤解があるのかもしれない。
今の段階では、どれも推測にすぎなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
このまま憶測だけで終わらせるのは、どうにも気持ちが悪い。
……本人に聞いてみるか。




