第114話 両親の願い 2
「すみません。真希はまだ、いろいろと考えなければならないことがあるようです。私たちが彼女の夢を認めれば、許してもらえると思っていたのですが……どうやら、私たちに対する傷つきや憎しみは、そう簡単に消えるものではないようですね」
妙な話だった。
真希の母親ではない。なのに、どうして彼女の番号から電話がかかってきたんだ? ということは、父親本人か?
他に思い当たる相手はいない。そう考えながら耳を傾けていたが、電話の向こうから聞こえてきたのは、予想以上に後悔のにじんだ声だった。
正直、驚いた。あの真希の父親が、こんな声を出すなんて。
「真希から……子供の頃の話を聞きました」
「……そうか。あの子は、ずっとつらい思いをしてきたんだな」
「はい。彼女にとっては、相当なものだったんだと思います。今の様子を見る限り、謝ったからといって、すぐに許してもらえるとは思えません」
電話の向こうで、彼は静かに息を吐いた。
疲れ切っているというより、胸の奥に詰まった何かを、どうにかして飲み込もうとしている。そんなため息だった。
しばらく沈黙が続いたあと、彼はぽつりと口を開いた。
「なあ、君……自分の娘に許してもらうには、どうすればいいんだろうな?」
……それを俺に聞くのか。
本来なら、真希本人に聞くべきことだろう。そもそも俺だって、親子の関係をどうすれば修復できるのかなんて、まともな答えを持ち合わせていない。
彼だけじゃない。香織さんだって、きっと同じように悩んでいるはずだ。
何かできることがあるのかもしれない。けれど、だからといって、俺が勝手に話を進めるわけにもいかない。真希の気持ちを無視して、彼女に許すよう説得するなんて本末転倒だ。
それでも、このまま何もしないというのも、どこか違う気がした。
「俺にできることなら、手伝えるかもしれません。少なくとも、一度くらいは動いてみます。でも、その前に一つだけ聞かせてください。……どうしてですか? どうして、真希にあんなに冷たく接していたんですか?」
電話の向こうが静まり返った。
すぐには返事がなかった。俺も催促することなく、相手が口を開くのを待った。
やがて、彼は重々しく語り始めた。
「俺も妻も、娘とどう向き合えばいいのか、わからなかったんだ。あんなふうに傷つけるつもりなんてなかった。それでも、結果的にあの子を傷つけた。……俺は、父親として最低だったんだよ。どうすれば父親らしく振る舞えるのか、最後までわからなかった」
……正直、理解しづらかった。
俺の父親とは、あまりにも違うからだろうか。
親なら、自分の子供を大切にするものじゃないのか。少なくとも、俺にとってはそれが当たり前だった。だからこそ、彼の言葉を聞いても、すぐには納得できなかった。
それでも、不思議と嘘をついているようには感じなかった。
言い訳に聞こえる部分がないわけじゃない。わからなかったからといって、真希を傷つけていい理由にはならないのだから。
けれど、今になって自分の過ちと向き合おうとしているのなら……一度くらい、機会を作ってみてもいいのかもしれない。
家族が互いに気まずさを抱えたまま、これから先もずっと過ごしていく。そんな未来は、できれば避けたかった。
真希が父親との過去に苦しんでいる姿を、母親である香織さんだって見たくはないだろう。
だからといって、無理に仲直りさせるつもりもない。許すかどうかは真希自身が決めることだし、たとえ相手が親であっても、傷つけられた過去が消えるわけじゃない。
それだけは、絶対に間違えてはいけない。
「今度の日曜日、どこかで会ってみませんか? もちろん、真希が会いたいと思ってくれれば、ですけど。許すかどうかも、これからどうするかも、最終的に決めるのは彼女ですから」
俺の返事に、彼がすぐ喜ぶとは思っていなかった。
実際、電話の向こうから聞こえてきたのは、弾んだ声ではなかった。それでも、先ほどまでとは違う、わずかな熱意のようなものが感じられた。
「……ありがとう。助かるよ、少年。それと……もし娘を傷つけるようなことがあったら、俺は君を許さないからな」
その言葉を聞いた瞬間、思わず苦笑しそうになった。
ずいぶん長い間、言う機会をうかがっていたような口ぶりだった。いや、もしかすると、最初からずっと言いたかったのかもしれない。
自分の娘を傷つけたくない。その気持ちだけは、どうやら本物らしい。
「そんなつもりはありませんよ。俺はただ、真希に幸せになってほしいだけです」
「……そうか。ありがとう、少年」
それ以上、彼が何かを言うことはなかった。
短い言葉を最後に、通話はあっさりと途切れた。
画面が暗くなったスマートフォンを見つめながら、俺は小さく息を吐く。
少なくとも、彼はようやく父親として一歩を踏み出そうとしているらしい。
それが今さらだということは、本人だってわかっているはずだ。それでも、やり直す機会があるのなら、悪いことばかりでもないだろう。
……うまくいくといいな。
ただ、今の俺が一番に考えるべきなのは、真希のことだ。
彼女のそばに戻って、今の電話について話そう。もちろん、日曜日に会うかどうかを決めるのは彼女自身だ。俺から無理に勧めるつもりはない。
それにしても、明日からはまた学校か。
今日はいろいろなことがありすぎた。正直、少しくらい休みたい気分だったが、そういうわけにもいかない。
おまけに、真夜を駅まで送って、ちゃんと家に帰さなければならない。あの調子では、放っておけばいつまでも居座りかねないからな。
そんなことを考えながらリビングに戻ると、真希も部屋から出てきていた。
ソファには坂上さんが座っていて、二人は楽しそうに話をしている。さっきまでの重苦しい空気はどこへやら、そこだけ別の時間が流れているようだった。
……なんだか、ずいぶん打ち解けているな。
「真夜、そろそろ時間だよ。行こう。母さんが待ってるから」
俺が声をかけると、真夜は案の定、不満そうに頬を膨らませた。
まあ、こうなることはわかっていた。けれど、今日はもう帰すと決めていたのだ。ここで甘やかすわけにはいかない。
「も~、まだ彼女のことを紹介してもらってないのに、もう帰れって言うの? お兄ちゃん、ひどくない?」
「……彼女?」
誰のことを言っているのかと思ったが、真夜の視線を追って、すぐに理解した。
ああ、坂上さんのことか。
……この子、本当にそういうところだけは察しがいいな。
「彼女は坂上エミリさん。真希の『お姉さん』だよ」
そう紹介すると、真夜は目を見開いた。
まるで、ずっと会いたかった有名人を目の前にしたかのように、エミリさんの顔をじっと見つめている。
その視線には、驚きと好奇心がこれでもかというほど詰まっていた。口を開くのも忘れているあたり、よほど意外だったらしい。
「あ、あなたがお姉さん!? もう、だったらもっと早く紹介してよ~! ふふふっ」
次の瞬間には、すっかりいつもの調子に戻っていた。
切り替えが早いというか、遠慮がないというか……。
「まあ、いろいろと事情があったんじゃないかな。……それで、こっちが真夜。俺の妹で、将来的には真希の妹にもなる予定の子だよ。な、真夜ちゃん?」
「うん! よろしくね、お姉ちゃん~!」
真夜は満面の笑みを浮かべると、迷うことなくエミリさんに抱きついた。
エミリさんも一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに笑顔で彼女を受け止める。
まるで、昔から仲のよかった姉妹が久しぶりに再会したかのような光景だった。
初対面のはずなのに、二人の間には不思議なほど自然な空気が流れている。遠慮もなければ、気まずさもない。真夜の人懐っこさも大したものだが、それをすんなり受け入れるエミリさんも、やっぱり懐が深い。
その様子を見ているだけで、こちらまで自然と頬が緩んでしまった。
「……ふふっ。真希ちゃん、変わったね」
そんな二人を眺めていたエミリさんが、不意に真希へと視線を向けた。
「どうやら、変わるきっかけになった人がいるみたいだね?」
突然話を振られた真希は、きょとんとした顔で彼女を見返した。
何を言われたのか理解するまで、ほんの少し時間がかかったらしい。
やがて、その言葉の意味を察したのか、真希はちらりと俺のほうを見た。
それから、少しだけ考えるように目を伏せる。
「……まあ、彼のおかげ、かな?」
最後のほうは、ほとんど聞こえないくらいの小さな声だった。
そのうえ、頬までほんのり赤く染まっている。
……おいおい。
俺が反応するより早く、真夜がにやりと笑った。まるで、最初からエミリさんと示し合わせていたかのような顔だ。
「へえ~? そうなんだぁ? お兄ちゃんのおかげなんだぁ~?」
「ち、違っ……! いや、違わないけど、そういう意味じゃなくて……!」
真希は慌てて言い返そうとするものの、うまく言葉が出てこない。
その様子があまりにも面白くて、俺はつい吹き出してしまった。
「ちょっと、笑わないでよ……!」
「悪い悪い。でも、そんな反応されたらさ……」
「もうっ!」
真希がますます顔を赤くする。
……やっぱり、面白い。
いや、もちろん、からかうつもりばかりではない。こうして感情を素直に表に出してくれることが、単純に嬉しかったのだ。
出会ったばかりの頃の真希なら、きっとこんなふうにはならなかった。
他人との間に壁を作り、自分の気持ちを押し込めて、何事もなかったかのように振る舞っていたはずだ。
それが今では、こんなにもわかりやすく照れて、困って、怒ってみせる。
ほんの些細な変化かもしれない。けれど、俺にとっては、それだけで十分だった。
「うん。変わったよ、真希。……俺も、今の真希のほうが好きだな」
そう言って笑いかけると、真希は一瞬、言葉を失った。
そして、また顔を赤くする。
……あれ? 今の、そんなに照れることだったか?
まあ、いいか。
彼女のそんな表情を見ていると、これまでの出来事が次々と思い出された。
最初に出会った日のこと。少しずつ距離が縮まっていったこと。思いがけないすれ違いや、互いの気持ちを知ったときのこと。
いろいろあった。
決して順調なことばかりではなかったし、これからだって、きっと簡単にはいかないだろう。
それでも、ここまで来られたのだ。
もちろん、俺たちが一緒に書き上げるはずの小説は、まだ完成していない。
けれど、ようやく手が届きそうなところまで来ている。
そう考えると、自然と笑みがこぼれた。
……そういえば。
真希の両親から、小説を書くことについて許可をもらうという話もあったはずだ。
あれは、どうなったんだっけ?
少なくとも、さっきの電話で父親のほうとは話ができた。あとは、真希自身の気持ちを確かめながら、少しずつ進めていけばいい。
ようやく、本当に始められるのかもしれない。
そんなことを考えていると、リビングには三人の楽しそうな笑い声が響き続けていた。
真夜が何かを言い、それにエミリさんが笑い、真希が恥ずかしそうに言い返す。
さっきまで抱えていた悩みが、すべて消えてしまったわけではない。
それでも、今この瞬間くらいは、こんな穏やかな時間を楽しんでもいいだろう。
……まあ、俺もそろそろ動かないとな。
実は、真希に伝えたいことがもう一つあった。
彼女にとって、きっと嬉しい知らせになるはずだ。
それを聞いたとき、真希がどんな顔をするのか。
今から、少しだけ楽しみだった。
* * *




