第113話 両親の願い
彼女はどこか迷うような目をしていた。明らかに真希のことを心配している。それなら、余計な言葉はいらない。もしかすると、だからこそドアを開ける前に何も言わなかったのかもしれない。
坂上さんは、足元まで届く長いスカートに、少しゆったりとしたシャツを合わせていた。その服装を見ていると、まるで昔から真希の服装まで気にかけていたかのように思えてくる。
「……真希ちゃん、大丈夫?」
彼女は落ち着かない様子で指先を弄っていた。年上の女性なのに、今だけは緊張した子供のようにも見える。それだけ真希のことを心配しているのだろう。
「入ってください。今はたぶん、俺より坂上さんのほうが必要だと思います」
そうだ。
坂上さんは、俺よりずっと長く真希を知っている。今の彼女にとって、それが一番大きいはずだ。そこに疑いはなかった。
坂上さんは静かに中へ入り、真希の部屋の前まで歩いていく。そして、ためらうように一度だけ息を吐いてから、そっとドアをノックした。
「真希ちゃん、入ってもいい?」
返事はなかった。
それでも坂上さんは無理に声をかけ続けることはせず、静かにドアノブへ手を伸ばした。
ドアが開くと、真夜がちょうどこちらへ向かおうとしていた。
「……坂上さん」
真夜は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに何も言わなくなった。彼女もまた、坂上さんが真希にとって特別な存在だと分かっているのだろう。
「真希ちゃん……」
坂上さんはもう迷わなかった。
部屋の中へ入り、真希の隣に腰を下ろす。その視線には、俺が抱いていたものとは少し違う、長い時間を知っているからこその心配が滲んでいた。
真希はそこにいた。
ベッドの上で、シーツに身を包んだまま動かない。俺が用意したお茶にも手をつけていなかった。
真夜もそんな真希を見つめながら、何とも言えない悲しそうな顔をしている。
俺も……胸の奥が重くなっていった。
何かしてやりたい。
でも、何をすればいいのか分からない。
力になりたいと思っているのに、何もできない。その無力さが、何よりも悔しかった。
もしかして、俺は邪魔なんじゃないか?
そんな考えが頭をよぎる。
いや、違う。
俺は真希を助けたい。少しでも力になりたい。
父親にだって言ったじゃないか。
俺が、真希を守るって。
その言葉を思い出して、俺は小さく息を吸った。
「坂上さん……真希と二人で話してみたいです。少なくとも、俺なりにやってみたい」
坂上さんは、まるでその言葉を待っていたかのように俺を見た。
「……うん」
それだけ言うと、静かに立ち上がる。
そして俺たちを二人きりにするため、何も言わずに部屋を出て、そっとドアを閉めた。
俺は真希の隣に座った。
彼女は自分の殻に閉じこもってしまったように、シーツの中で身を小さくしている。
でも、ここで何もしないわけにはいかない。
もう一度、俺の存在を思い出してもらわないと。
「真希、俺はここにいる。そばにいるから……分かる?」
返事はなかった。
俺を避けているようにも見える。
部屋の中には、重たい沈黙だけが残っていた。外は曇っていて、窓から差し込む光もどこか弱い。まるで、この部屋だけじゃなく、世界そのものが彼女と一緒に沈んでいるように感じられた。
俺はまだ、真希の過去を全部知っているわけじゃない。
少なくとも、すべてを知っているわけではない。
彼女にはまだ話す勇気がないのかもしれない。それとも、俺に余計な心配をかけたくなくて、黙っていたのか。
どちらにしても、今の俺には分からない。
問題は、この状況で俺がどう動くべきなのかだった。
そっとしておくべきか。
それとも、「大丈夫だ」と言って抱きしめるべきか。
……もういい。
最初から、俺ができることをやろう。
こんなことをする資格が俺にあるのかなんて分からない。それでも、何でもいい。何かできるなら、試してみたかった。
俺は後ろから、そっと真希を抱きしめた。
計画していたわけじゃない。
考え抜いた末の行動でもない。
ただ、それしか思いつかなかった。
「俺はここにいる。ずっとそばにいる。それだけは忘れないでくれ。全部話していい。どんなことでもいいから……俺は真希のためにここにいる。ずっとだ」
腕の中の真希は、ひどく冷たかった。
シーツのせいだと思おうとした。
けれど、本当は分かっていた。
その冷たさは、きっと今の彼女の心そのものだった。
「お願い……帰って」
小さな声が聞こえた。
「……ううん。誰にもここにいてほしくないの。一人にして……」
「本当にいいのか? 本当に俺に帰ってほしいのか?」
「……バカ。そんなに甘やかしておいて、いなくなったら困るじゃない」
そう言って、彼女はゆっくりと振り返った。そして、もう二度と離したくないとでもいうように、俺を抱きしめる。
さっきまでの様子が嘘みたいだった。
でも……よかった。
少なくとも、俺の言葉は彼女に届いたらしい。
「何があったのか、話してくれていい。無理に聞き出すつもりはない。でも、何も知らないままだと……やっぱり心配なんだ」
「……話すよ。ちゃんと話す。あなたのことが好きだから、これ以上心配させたくない。それだけ……」
真希はゆっくりと顔を上げた。
涙はまだ目元に残っていたけれど、さっきよりも少しだけ落ち着いているように見えた。
そして彼女は、迷うことなく話し始めた。
もっと早く知りたかった。
もっと早く、彼女のそばにいてあげたかった。
そんなことを何度も思いながら、俺は真希の話を聞いた。
その過去は、あまりにも悲しかった。
聞けば聞くほど胸が苦しくなる。それでも、途中で目を逸らすことはできなかった。
もしここで、また彼女を一人にしてしまったら――それこそ、俺にとって取り返しのつかない過ちになる。
俺は真希を抱きしめた。
彼女が今、何よりもそれを必要としているように思えたからだ。
哀れんでいるわけじゃない。
真希は、誰かに優しくされることを遠慮する必要なんてない。これまで十分すぎるほど苦しんできた。これ以上、一人で抱え込む必要なんてないんだ。
しばらくの間、俺たちは何も言わずにそうしていた。
やがて真希の呼吸が落ち着き、張り詰めていた肩から少しずつ力が抜けていく。
それを確認してから、俺は坂上さんを部屋へ呼び戻した。
坂上さんは落ち着いた真希の姿を見ると、ほっとしたように小さく笑った。
「よかった……」
そう呟いてから、真希の隣に腰を下ろす。
二人の間には、俺には分からない時間がある。
久しぶりに会ったのなら、きっと話したいこともたくさんあるだろう。
だから、俺は二人を残して部屋を出ることにした。
その後、真夜とも少し話をした。
義務だからじゃない。
これ以上、真希のことで不安にさせたくなかっただけだ。
何があったのかを簡単に説明して、今はもう大丈夫だと伝えた。詳しいことまで話す必要はない。真夜には、これ以上悲しそうな顔をしてほしくなかった。
少しまとめすぎた気もする。
でも、それくらいはしてやらないと。
しばらくして、廊下に出たところで声がした。
「和泉くん、そこにいる?」
坂上さんの声だった。
さっきまでの緊張はすっかり消えていて、落ち着いた声をしている。
「うん、いるよ。真希はどう?」
「大丈夫だよ、慧翔くん。心配かけてごめんね。私がもっと早く話しておけばよかった」
その言葉を聞いて、坂上さんが真希のことを本気で心配していたのだと改めて分かった。
もし俺の母さんがここにいたとしても、きっと同じように真希を放っておかなかっただろう。
自分の子供の一人のように、何も言わずにそばにいてくれたはずだ。
そんなことを考えながら立ち上がろうとした、その時だった。
――スマホが鳴った。
突然の着信に少し驚いた。
でも、不思議と誰からなのかは分かっていた。
「……すぐ戻る」
そう言って、俺はスマホを手に取った。
着信が切れる前に、急いでバルコニーへ向かう。
そして、周囲に聞こえないようにして電話に出た。
「もしもし?」
画面に表示されていた名前は――高嶺香織さん。
真希の母親だった。




