第112話 心に残る痛み
二人はまだ頭を下げたまま、真希の返事を待っていた。
その姿を見て……真希は泣いていた。
嬉しくて流す涙じゃない。
長い間抱えてきた憎しみや恨み、悔しさ。自分でも整理しきれないほどの感情が、一気に溢れ出しているようだった。
「こんなこと……全部やったあとで、ただ許してほしいなんて……!」
その謝罪は、今の彼女にとっては侮辱にしか感じられなかったのだろう。
真希は勢いよく立ち上がった。
「謝れば……謝れば、全部許されると思わないで!」
そう叫ぶと、彼女は振り返ることなく走り出した。
俺を置き去りにして。
その場には、重苦しい沈黙と、彼女が残していった感情だけが取り残された。
反応する暇なんてなかった。
さっきまで穏やかだった空気が、一瞬で張り詰めている。
真希がどれだけ傷ついているのか、そのすべてを理解できるわけじゃない。それでも、今は追いかけて話すべきだと思った。
もちろん、彼女の両親の言い分も聞く必要はある。
ただ、自分の立場を良くするためじゃない。
真希の傷を少しでも癒すためだ。そのためには、いつか彼女と両親が向き合い、和解できることが一番いい。
でも……。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
もういい。
どうにでもなれ。
ただ、真希に何かあってほしくない。
「真希と話してきます。また後で」
二人にそう言い残すと、俺はすぐに走り出した。
真希を守らないと。
何かあってほしくない。
今は、それだけが頭の中にあった。
あんなに必死になって走っている人間が、周りなんて見えているはずがない。事故に遭ってもおかしくない。
そんな最悪の想像を振り払うように、俺は必死に足を動かした。
どうか、間に合ってくれ。
そう願いながら、全力で走る。
しかも、真希は足が速い。
気づけば、もう姿が見えなくなっていた。それでも、向かっている場所には心当たりがあった。
家だ。
きっと、あそこへ戻ろうとしている。
角を一つ曲がる。
そして、もう一つ。
その先に、真希の姿が見えた。
大通りを渡ろうとしている。
「真希!」
叫びながら、俺はさらに速度を上げた。
少しずつ距離が縮まっていく。
でも、その瞬間だった。
真希が道路へ飛び出した。
車の運転手は彼女に気づいていなかった。
信号が変わるのを待つこともなく、真希はそのまま道路を渡ろうとしていた。
「危ない!」
声を張り上げた。
けれど、間に合わない。
そう思った瞬間、俺は反射的に目を閉じた。
最悪の光景が頭をよぎる。
すべて、俺のせいだ。
大きな衝撃音が響いた。
――でも。
恐る恐る目を開ける。
そこには、まだ走り続けている真希の姿があった。
「……え?」
車は……確かに何かに衝突していた。
でも、真希じゃない。
何が起きたのか理解できなかった。
ありえない。
そう思った、その時だった。
「待て……」
視界の端に、見覚えのある姿が映った。
「なんで雨宮がここに……?」
でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
何より大事なのは、真希が無事だということだ。
俺は再び走り出した。
雨宮のことは、あとで聞けばいい。
それにしても……あまりにも怪しい。
まるで、すべてを知っているかのように。
それどころか、この状況すら楽しんでいるように見えた。
あいつは昔からそういうところがある。
だからこそ、最近ではもう少しくらいのことでは驚かなくなっていた。
「くくくく……幸運を祈るよ、和泉」
「また後で話そう、雨宮」
今は笑う気分じゃない。
こんな状況で、ふざけている余裕なんてあるはずもなかった。
俺は再び真希を追った。
そして、二百メートルほど先で、ようやく彼女が立ち止まった。
当然だ。
あれだけ全力で走り続けたんだ。止まらないほうがおかしい。
一方の俺も、ようやく勢いを落とした。
走りながら何度も「止まれ」と叫び続けていたせいで、喉はすっかり痛くなっている。
それでも、必死に追いかけ続けた甲斐はあった。
ようやく追いついた。
「なんで飛び出したんだ! 怪我するかもしれなかっただろ!」
息を切らしながら、俺は真希に叫んだ。
叱りつける言葉を続けようとして、俺はふと、自分が今やるべきことを思い出した。
怒るんじゃない。
まずは、彼女を落ち着かせないと。
「ごめん……家に帰ろう?」
真希は小さくうなずいた。
泣き腫らした目には、まだ涙が残っている。その涙は今にもこぼれ落ちそうなのに、彼女自身は何も感じていないかのように、ただぼんやりと前を見ていた。
こんな時、いったい何を言えばいいんだ?
下手に慰めれば、かえって傷をえぐってしまうかもしれない。
だからといって何も言わなければ、俺が何も気にしていないと思われてしまう。
どうすればいいのか分からない。
それでも、今はここにいるわけにはいかなかった。
とにかく、家へ連れて帰ろう。
あんなふうに、抱えきれない痛みをその目に浮かべたまま、彼女を一人にしておきたくなかった。
* * *
結局、俺たちは家に戻った。
真希はまだすっかり打ちのめされたままで、その姿を見ているだけで胸が苦しくなる。
こんな彼女を見るのは辛かった。
それなのに、彼氏である俺は何もできない。
……いや。
何かできるはずだ。
そう思い直して、俺は真希を部屋まで連れていった。
歩いているというより、俺についてきているだけ。
まるで心の奥に深い傷を負ってしまい、自分の力だけでは立っていることさえ難しいように見えた。
「真希、ここで待ってて。すぐ戻るから。何か飲み物を持ってくるよ。いい?」
彼女は小さくうなずいた。
それだけだった。
他には何の反応もない。
でも、今の彼女に無理やり何かをさせるのも違う気がした。
俺はそれ以上何も言わず、台所へ向かった。
お茶がいいのか、それともコーヒーか。
……こんな時、何を飲ませればいいんだ?
「お兄ちゃん、どうしたの? なんか元気ないけど」
その声を聞いて、俺は思い出した。
そうだ。
真夜はまだここにいる。
どうやら何かに夢中になっていたらしく、俺たちが帰ってきたことにも気づいていなかったようだ。
でも、今はそれが助かった。
真夜なら……頼っても大丈夫だよな?
「真夜、真希を慰めてやってくれないか? 何があったのかは、あとでちゃんと説明する。だから……頼む。お前を信じてる」
俺がそう言うと、真夜は驚いたように目を見開いた。
けれど、すぐに真剣な表情になる。
「うん。分かった」
短く答えると、真希のいる部屋へ駆けていった。
今は、あいつを頼るしかない。
俺も急いで飲み物を用意しよう。
結局、数分ほどで準備を終え、盆を手にして真希の部屋へ向かった。
ドアをノックしてから入ろうとした、その時だった。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
ほぼ同時に、真夜が真希の部屋のドアを開ける。
「これ、真希に持っていって。俺は玄関を見てくる。いい?」
真夜はうなずき、俺からお盆を受け取った。
「任せて」
そう言って、そっと真希のもとへ向かっていく。
俺はその背中を一瞬だけ見送ってから、玄関へ向かった。
誰が来たのかは分からない。
でも、なんとなく心当たりはあった。
ゆっくりとドアを開ける。
そして、予想は当たっていた。
そこに立っていたのは、俺よりもずっと長く真希のことを知っている人だった。
「……坂上さん」
彼女の『お姉さん』。
こんな時に来る人なんて、他には考えられなかった。




