第111話 父親の選択
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俺は、昔からずっと馬鹿だった。
いや……馬鹿でいることは、俺にとって呪いであり、同時に祝福でもあったのかもしれない。
香織と出会えたのも、結局はその馬鹿さのおかげだった。
彼女はいつも誰かに囲まれていた。誰からも好かれ、憧れられていて、俺なんかとは正反対の人間だった。
一方の俺は、出席日数を稼ぐためだけに学校へ通うような不良だった。一時間目が終われば、授業なんて知ったことかと、迷わず学校を抜け出していた。
そんな俺たちが出会ったのは、ある冬の日のことだった。
冷たい風が吹く校舎の外で、香織は一人で昼食を食べていた。吐く息は白く、細い指先も赤くなっていた。それなのに、彼女は寒さを気にする様子もなく、静かに弁当を食べていた。
どうしてそんなところにいるのかなんて、当時の俺にはどうでもよかった。
ただ、なんとなく可哀想に思った。
だから俺は、自分が着ていた冬用のシャツを脱いで、彼女の肩にかけてやった。
「風邪ひくぞ」
たったそれだけ言って、その場を離れた。
次の日、俺は見事に熱を出した。
どうやら自分のシャツを彼女に渡したせいで、今度は俺が風邪を引いたらしい。
そして、そのことをよほど気にしたのか、香織はわざわざ俺の家までシャツを返しに来た。
玄関先で顔を真っ赤にして、どうしていいのか分からないように立っていた彼女を見て、俺は思わず笑ってしまった。
あの時の彼女の目を、今でも覚えている。
心配そうで、それでもどこか怒っているような、不思議な眼差しだった。
それが、俺たちの始まりだった。
それから俺たちは、気づけばいつも一緒にいるようになった。
香織は、俺が学校を抜け出そうとするたびに叱った。同じクラスになってからは、俺が逃げ出さないように、まるで監視役のようについて回った。
「今日も帰るつもり?」
「当然だろ」
「じゃあ、私もついていく」
「……なんでだよ」
そんなやり取りを、何度繰り返しただろう。
ある日には、俺が学校を休まないようにと弁当まで作ってくれた。
「昨日、ちゃんと授業に出たご褒美」
最初は、本当にそれだけだった。
けれど、その「ご褒美」は少しずつ増えていった。
一週間に一度だったものが、いつの間にか二度になり、三度になり……気づけば、それが当たり前になっていた。
そして、一年が過ぎた。
その頃には、香織に対する俺の気持ちは、もう最初の頃とはまったく違っていた。
だからこそ、俺は彼女を避けるようになった。
自分でも理由は分かっていた。
怖かったのだ。
この気持ちを認めてしまったら、今までの関係には戻れなくなる気がした。
当然、香織は怒った。
今でも鮮明に覚えている。
ある日、彼女は俺の家までやって来た。そして、勝手に「私が彼女だから」と言い張り、俺が止める間もなく部屋へ入ってきた。
悔しさと怒りで目に涙を浮かべながら、俺をベッドの隅まで追い詰めて……そのまま唇を重ねた。
あの日の香織の顔は、今まで見たことがないくらい真っ赤だった。
怒っているのか、恥ずかしいのか、それとも泣きたいのか。
俺には分からなかった。
ただ、あまりにも可愛くて、息をすることすら忘れそうになった。
あれが、彼女なりの告白だった。
俺たちは、その日から付き合い始めた。
けれど、すべてが順調だったわけじゃない。
香織の両親は、俺たちの交際に頑なに反対した。
それでも、俺は諦めなかった。
最後の条件を満たすための金も必要だったし、何より、香織の両親に「俺なら彼女を守れる」と認めてもらう必要があった。
だから勉強もした。
今までろくに机に向かわなかった俺が、夜遅くまで教科書を開くようになった。
何度も眠気に負けそうになった。それでも、香織の隣に立ち続けるためなら、やるしかなかった。
やがて高校を卒業し、そろそろ頃合いだと思えるようになった。
香織の両親に会う機会も少しずつ増えていった。
最初に会った頃とは違い、二人の態度もほんの少しずつ変わっていた。
完全に認められたわけじゃない。
それでも、少なくとも「認める価値のない男」ではなくなったのだと思う。
そして、しばらくして最後の条件を満たした。
俺と香織は結婚し、一緒に暮らし始めた。
その時、ようやく俺たちは、自分たちの人生を自分たちで選べたような気がした。
結局、香織の両親も、俺たちを無理やり引き離すことはできなかった。
……だが、そこで終わりではなかった。
むしろ、そこから俺たちの人生は大きく変わり始めた。
香織が妊娠した。
その知らせを聞いた時、俺は心の底から嬉しかった。
やがて、生まれてくる子供が女の子だと分かった。
その瞬間、なぜか胸の奥に、言葉にできない不安が生まれた。
『俺は、この子をどう育てればいい?』
それが、娘が幼い頃から何度も自分に問いかけていたことだった。
生まれてきた娘は、香織によく似ていた。
笑った時の表情も、目元も、ふとした仕草まで。
それを見るたびに嬉しくなった。
それなのに、義父母の会社を支える仕事は、少しずつ俺の心をすり減らしていった。
仕事が終わって家に帰っても、疲れている。
思い通りにならないことがあれば苛立つ。
そして、その苛立ちを上手く言葉にすることができなかった。
俺は、娘が望んでいたような父親にはなれなかった。
ただの馬鹿だった。
怒鳴ることしかできず、自分の感情を抑えることもできなかった。
……一度だけ、娘に手を上げたこともある。
今でも、あの日のことを忘れられない。
怯えた娘の顔。
何も言えずに俺を見る、その目。
あの瞬間、俺は父親として取り返しのつかないことをしたのだと、ようやく理解した。
でも、それだけでは終わらなかった。
あの日を境に、娘は俺を怖がるようになった。
もちろん、娘に非があったわけじゃない。
あの子はただ、父親に愛されて、安心して笑っていられることを望んでいただけだった。
なのに俺は、その正反対だった。
毎日のように、娘は俺の顔色をうかがうようになった。
俺が少し声を荒らげるだけで、肩を震わせる。
それを見て後悔する。
何度も「もう怒らない」と自分に言い聞かせる。
それでも、また怒鳴ってしまう。
まるで、自分自身で作った檻の中から抜け出せなくなったみたいだった。
分かっていた。
このままじゃいけない。
分かっていたのに……俺は、変わることができなかった。
彼女を苦しめた。食事も喉を通らなくなるほどに。
一日中泣き続け、俺の気配を感じれば、すぐに隠れる。家の中にいるはずなのに、まるで俺から逃げる場所を探しているようだった。
学校でも、彼女を怖がる生徒が出始めた。教師たちも異変に気づき、何度か俺たちに連絡を寄こした。
友達はいなかった。
彼女のそばには、誰もいなかった。
『もっと勉強すれば、友達もできるだろう』
そんなふうに考えた。
成績を上げろと言い、彼女は必死に努力し始めた。そして、ついに満点を取った。
それなのに、俺はまた間違えた。
自分が子供の頃にはできなかったことを、娘が成し遂げた。その努力を喜ぶどころか、なぜか自分の惨めさを突きつけられたように感じてしまった。
そして、また彼女を傷つけた。
それを境に、彼女の笑顔は消えた。
俺がやったことだ。
俺のせいだ。
けれど、俺だけが悪かったわけじゃない。
香織もまた、何年もの間、楽しそうに彼女の世話をしていたはずなのに、いつしか同じように彼女を追い詰めていた。
このままでは駄目だ。
あと数年で高校に入る。それなら、その頃には一人で暮らしたほうがいい。俺たちがそばにいる限り、これ以上、あの子を壊してしまう。
そう思うようになった。
そんなある日、彼女の部屋の前を通りかかった。
ふと、聞き慣れない笑い声がした。
……一人じゃない。
覗いてみると、そこにはエミリがいた。
うちで働いているレジ係の孫娘、坂上エミリ。いつの間にか、彼女は真希と親しくなっていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥に小さな希望が灯った。
今度こそ、壊さないようにしよう。
俺はエミリに感謝し、高校に入るまで真希のそばにいてほしいと頼んだ。高校へ進めば、真希はこの家を出ることになる。それまでの間だけでも、あの子に笑っていてほしかった。
エミリは引き受けてくれた。
俺に頼まれたからじゃない。
真希を、本当の妹のように大切に思っていたからだ。
あの頃の俺にとって、エミリは唯一の希望だった。
そして、真希は家を出ていった。
しばらくして、エミリから真希が書いた物語のことを聞かされた。
そこに描かれていたのは、ただ幸せになりたかった少女の物語だった。
自分の家を離れ、新しい場所で、別の家族に受け入れられていく少女。
その話を聞いたとき、俺は泣けばいいのか、それとも何も感じないふりをすればいいのかさえ分からなかった。
結局、そこに描かれていたのは、俺たちが真希に与えた痛みだった。
彼女は新しい場所で、自分の人生を始めていた。
そんな中で、俺たちは一つのことを知った。
真希が、小説を書いている。
そのせいなのか、成績が少し落ちたらしい。
それが良いことなのか、悪いことなのか、俺には判断できなかった。
ただ、俺たちは小説の投稿をやめさせようとした。
そのために雇った人間たちの前に、一人の少年が現れた。
真希を、あの批判の嵐から守った少年。
もちろん、俺は真希にここへ戻ってきてほしかった。
小説に時間を取られ、そのせいで成績が下がっていくのを見るより、こちらにいてくれたほうがいい。そう思っていた。
けれど、同時に理解もしていた。
あの小説を書くことが、真希にとって俺たちが与えた痛みから逃げるための、たった一つの方法だったのだと。
そして、数か月前。
香織から聞かされた。
真希には、俺にどこか似た少年と付き合っているらしい、と。
香織は、すでに二人の関係を祝福していた。
それでも、俺には足りなかった。
何が足りないのかは、分かっていた。
謝罪だ。
俺たちが真希に与えてきた苦しみ。そのすべてに対して、きちんと頭を下げること。
「プライドなんて捨てて、ちゃんと謝りましょう。たとえ許してもらえなくても、それでも私たちは努力し続けるべきよ」
香織は、そう言った。
だから、俺は今ここにいる。
逃げずに、真希と向き合うために。
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