第109話 複雑な家族
数分後、車は玄関前にゆっくりと停まった。
扉が開くと、真希の『お姉さん』はまるで大切な主人を迎えるかのように、丁寧に頭を下げた。
けれど、真希は一瞬たりとも迷わなかった。
車から降りるなり、彼女のもとへ駆け寄る。
突然のことだったのか、彼女は一瞬目を丸くした。それでもすぐに両腕を広げ、真希を優しく抱きしめた。
「会いたかったよ、お姉さん……。大変だった。一人で暮らすのって、本当に大変だったんだから」
真希は、俺に対してさえ見せたことがないほど強く彼女にしがみついていた。
いや、別に嫉妬しているわけじゃない。
それだけ、彼女に会いたかったんだろう。
もし前もって話を聞いていたら、真希はきっと、お姉さんのことを何時間でも話し続けていたに違いない。
それくらい、二人の再会は特別なものに見えた。
嬉しくて抱きついているというより、今にも泣き出してしまいそうなほど、真希の表情には安堵が滲んでいた。
「ほら、落ち着いて、真希。まだまだ子供みたいね。それに、英語のほうは上達したの? こんなところでお客さんに甘えてちゃ駄目でしょう?」
少しからかうような口調だったけど、その声には懐かしさと優しさが混じっていた。
真希はようやくゆっくりと彼女から離れ、少し照れくさそうに笑った。
「そうだね……慧翔くんの前で、こんな姿を見せるのはちょっと恥ずかしいかも」
「ふふっ。じゃあ、ちゃんと紹介してちょうだい」
彼女に促され、真希は俺のほうを振り返った。
さっきまでの無邪気な笑顔とは違う。
どこか照れくさそうで、それでも嬉しそうな表情だった。
「慧翔くん、紹介するね。彼女は坂上エミリさん。見ての通り、名前は外国風だけど、苗字は日本風なの。お父さんが日本人で、お母さんが外国人なんだって」
一度言葉を切り、真希はエミリさんを見た。
その目には、昔を懐かしむような光が浮かんでいた。
「私にとって、とても大切な人なの。一番辛かった時にそばにいてくれて、私の面倒を見てくれた人。だから、私にとっては本当のお姉さんみたいな存在」
そこで少しだけ息を吸う。
そして、今度は俺を見た。
「それで……彼は、一緒に小説を書いてる人。趣味も合うし、こんな私のことも受け入れてくれた人。それから……私が愛してる人。慧翔くんだよ」
最後の一言を口にした瞬間、真希の顔が分かりやすいほど赤くなった。
それを見た坂上さんは、口元を手で隠しながら、必死に笑いをこらえている。
「なるほど……」
彼女はいたずらっぽく笑うと、俺を上から下までじっくりと眺めた。
「この子が、真希の初めての相手ってわけね。ふふ、悪くないじゃない。二人とも、これからも頑張ってね」
その言葉に、俺は少しだけ引っかかった。
たぶん、言いたいことは分かる。
真希の父親のことを言っているんだろう。
「和泉慧翔です。よろしくお願いします。それと……真希を支えてくれて、ありがとうございます」
俺が頭を下げると、坂上さんはすぐに首を横に振った。
「いいえ。私がしたくてしたことですから。それに、真希ちゃんは私にとって妹みたいなものです。大切に決まってるでしょう?」
「……そう言ってもらえると、安心します」
少なくとも、真希がこの人を慕っている理由はよく分かった。
それにしても、二人の会話はずいぶん自然だった。
使用人と主人という関係なら、もう少し堅苦しいものだと思っていたけど、そんな雰囲気はまるでない。
きっと、真希がどこかでそういう関係を望んだのだろう。
「ほら、二人とも入って。ご両親がお待ちよ。それから……二人とも、頑張ってね」
坂上さんが玄関の扉を開ける。
その瞬間、広々とした玄関ホールが視界いっぱいに広がった。
高い天井。磨き上げられた床。壁には落ち着いた色合いの絵画が飾られ、照明も派手すぎない。それなのに、どこを見ても品の良さが滲み出ていた。
まるで九十年代初頭のクラシックな邸宅を、そのまま現代に残したような空間だった。
俺は思わず足を止める。
……これ、本当に家なのか?
そんな疑問が頭をよぎった。
けれど、隣にいる真希はもう驚いていなかった。
ただ静かに、前を見つめていた。
坂上さんに案内され、俺たちは玄関の奥へと進んでいった。正面の大きな扉の前には数人の使用人が並んでいて、俺たちの姿を確認すると、一斉に深く頭を下げた。
「真希さま、慧翔さま、ようこそおいでくださいました」
……慧翔さま?
そんな呼ばれ方をしたのは初めてだった。
妙にくすぐったい。でも、ここで変に反応するわけにはいかない。
落ち着け。
何があっても動じず、しっかりしたところを見せないと。
そう自分に言い聞かせながら歩いていると、やがて正面に二人の姿が見えてきた。
どうやら、俺たちを待っていたらしい。
二人とも立ったままこちらを見つめていて、俺たちが近づくと、ほんのわずかに表情を緩めた。
……さて。
ここからが本番だ。
失礼のないようにしなければならない。
俺は姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「黒川さん、奥さま。お久しぶりです。またお会いできて光栄です」
すると、黒川さんは何も言わなかった。
ただ、俺から視線を外す。
まるで、歓迎する気など最初からないと言わんばかりだった。
「私も、またお会いできて嬉しいです。お元気でしたか? あなた、ほら。せっかく挨拶してくださっているんだから、そんなに意地を張らないの」
「香織、いいんだ」
彼は諦めたように言った。
それでも、声には冷たさが残っている。
「……こんにちは。二人とも、よく来たな」
香織……。
これが真希の母親の名前か。
これからは間違えないように、香織さんと呼んだほうがいいだろう。
それにしても、父親の名前は……?
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
真希の恋人として、まずは彼に認めてもらわなければならない。
……とはいえ、真希自身が父親との間に問題を抱えているのなら、俺一人が頑張ったところで簡単にどうにかなるものでもない。
想像していた以上に、話は複雑そうだった。
それでも、一つ意外なことがあった。
真希の母親――香織さんは、夫に対してかなりはっきりと物を言えるらしい。
二人の間には、俺にはまだ分からない何かがあるようだった。
俺たちはしばらくその場に立っていた。
黒川さんの冷たい視線が、じわじわと居心地の悪さを増していく。
俺はただ、引きつらないように笑顔を保つことだけに集中していた。
そのときだった。
「お待たせしました。お食事の準備が整いましたので、よろしければこちらへどうぞ」
坂上さんの声が、張りつめた空気を切り裂いた。
助かった。
香織さんもすぐに俺たちを席へ促してくれた。
長いテーブルを囲むように席に着く。
料理はすでに並べられていて、どれも見た目からして手が込んでいる。食器が触れ合う小さな音さえ、この静かな部屋では妙に大きく聞こえた。
そして、席に着いて間もなく――。
香織さんは夫のほうへ少し身を寄せ、何かを耳元で囁いた。
その瞬間、黒川さんの表情が固まった。
「……これがあなたのチャンスよ。ちゃんと活かしなさい。さもないと……分かってるわね?」
口元には笑みが浮かんでいる。
けれど、その笑顔から感じる圧力は、真希が何かに腹を立てて理由を問い詰めるときとは比べものにならなかった。
黒川さんも明らかに緊張している。
額には、うっすらと汗まで浮かんでいた。
……俺は、いったい誰を怖がればいいんだ?
そんなことを考えていると、黒川さんは一度だけ深く息を吐いた。
緊張しているのは間違いない。
それでも、すぐに表情を整えた。
「……聞かせてくれ。二人は、どうやって知り合ったんだ?」
「え?」
思わず聞き返しそうになった。
もっと別の質問をされると思っていた。
付き合い始めた時期とか、俺の家族のこととか、学校での成績とか。
でも、最初の質問は意外にもシンプルだった。
なら、無駄に時間を使う必要はない。
「同じマンションに住んでいて、同じクラスでした。遅かれ早かれ、知り合うことになるのは自然なことだったと思います。他に何か聞きたいことはありますか?」
……え?
俺は思わず真希を見た。
今の言い方……。
真希は父親に対して、こんな話し方をするのか?
返事は冷たかった。
あまりにも淡々としていて、聞いているこっちの背筋まで凍りつきそうになる。
まるで、最初から心の扉を閉ざしているようだった。
まさか……。
いつもの真希じゃない。
怒っている。
いや――。
これは、ただ怒っているというレベルじゃない。
父親に対して、完全に腹を立てている。
隣を見ると、香織さんもまた夫に対して不満を隠していない。
……なんだか、急に黒川さんが可哀想に思えてきた。




