第104話 絶好の前進日和
「よし、今日のエピソードを公開する時間だね。小説をコンテストに応募したいけど、その前に両親と話さないと。そう思わない、慧翔くん?」
間違いなく、彼女の言う通りだった。特に、彼女の父親のことをまだ少ししか知らない俺としては、小説をコンテストに出すなら、彼の承認が必要になるだろう。
「説得してみるよ。うまくいくといいけど」
真希はいたずらっぽく微笑んだ。何か悪戯を思いついた子供みたいな表情だった。
「もし成功したら、ご褒美をあげる。あなたの好きな料理を作るかも……それとも、もっといいものかも」
一瞬、少し大胆なことを想像してしまったけど、真希がそんなことをするとは思えなかった。たぶん、何か小さなプレゼントでも用意してくれるのだろう。
「必要ないよ。ご褒美がなくてもやる。結局、君の夢だろ? この小説は」
「私たちの夢って言ってよ。あなたなしで小説を書くなんて、もう考えられないんだから」
おや……それは予想外だった。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。窓の外はいつの間にか夕暮れ色に染まり始めていて、部屋の中にも淡いオレンジ色の光が差し込んでいた。その光が真希の横顔を照らしていて、さっきまでのいたずらっぽい表情とは少し違って見えた。
それでも、自然と誇らしい気持ちが湧いてきた。
「褒めてくれてありがとう、真希。君のことを誇りに思うよ」
まさか、同じ言葉をそのまま返すとは思わなかった。
俺の言葉を聞いた瞬間、真希は目を少し見開いた。それから、みるみるうちに顔を赤らめていく。
俺と違って、彼女はこういう言葉を真正面から返されるのが苦手らしい。
その反応が妙に可愛らしくて、思わず笑いそうになった。
間違いなく、真希は俺たちの間でこういうことを言われるのに弱い。
今では、彼女が俺の攻撃の格好の標的に見えてきた。
……いや、やめておこう。
ここで調子に乗ったら、せっかくの雰囲気を台無しにしてしまいそうだ。
今はからかうのはやめておく。
それからもしばらく話を続けた。小説のこと、コンテストのこと、これからどうするか。話しているうちに時間はあっという間に過ぎていった。
気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。
部屋の照明だけが静かに俺たちを照らし、机の上には開いたままのノートと、小説の設定を書き込んだ紙が何枚も残っている。
その光景を見ていると、不思議と安心した。
まだ何も始まっていない。
それでも、少しずつ前に進んでいる。
そんな気がした。
* * *
そして、土曜日になった。
ここ数日、真希が一緒に帰らない日に限って、優希さんと会うことが多くなっていた。彼女は何かを隠しているようだった。
まさか、俺に興味がなくなったなんて考えるのは馬鹿げている。そんなことは分かっている。
それでも、何となく気になってしまう。
そして今、俺はもっと大事なことに気づいていた。
真希が俺のベッドに入り込んで、猫みたいに体を寄せている。
あとは喉を鳴らすだけだった。
学校ではあれほど冷静で、少し近寄りがたい雰囲気さえある彼女が、家ではこんなにも甘えてくる。
そのギャップには、今でも慣れない。
窓から差し込む土曜日の朝の光が、カーテンの隙間から細く部屋へ入り込んでいた。まだ早い時間なのか、外から聞こえる音も少ない。時計の秒針だけが、静かな部屋の中で一定のリズムを刻んでいる。
俺はぼんやりと天井を見つめながら、最近のことを考えていた。
最近、坂本さんも少し社交的になって、その変化は誰が見ても分かるほどだった。そのせいか、ますます多くの男子に注目され始めている。今のところ、告白が絶えないらしい。
でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺は――
「かぁ!」
真希がさらに強く抱きしめてきた。まるで俺が起き上がるのを邪魔するかのように。
「どこにも行かないで、慧翔くん」
その意外な力に、俺は一瞬固まった。
……なんで今日はこんなにべったりなんだ?
最近、どんどんひどくなっている気がする。
アマミヤや坂本さんが遊びに来ることさえ、以前より嫌がるようになってきた。
このままだと、彼女がヤンデレになるんじゃないかと、少し怖くなってきた。
これが彼女の性格の次の段階なのか?
いや。
それはおそらく、俺が想像できる中でも一番馬鹿げた考えだ。
そんなことは絶対に起こらない。少なくとも、俺は真希がそんな性格になるなんて信じていない。
それでも……彼女とは、一度ちゃんと話したほうがいい。
「真希、強く抱きしめすぎだよ。窒息しそうだ」
そう言いながら、俺はシーツを少し下へずらした。
その時だった。
真希の服装が目に入った。
彼女は体をすっぽり覆うようにカイロをいくつも貼り、さらに上着まで着込んでいた。
その姿を見て、俺は思わず目を瞬かせる。
……間違いない。
何か予期せぬことが起きないように、事前にしっかり準備してきたんだ。
そこまでしていたのか。
俺は呆れながらも、思わず小さく息を吐いた。
朝の静かな部屋に、俺のため息だけが妙に大きく響いた。
こんなに長く一緒に過ごしてきたのに、こうして二人きりになると、真希はどこか嬉しそうだった。
彼女は俺の頬にそっと顔を近づけ、小さくキスを落とした。
「お誕生日おめでとう、慧翔くん」
ああ。
そういえば、今日は俺の誕生日だった。
自分でもすっかり忘れていた。毎日をいつも通り過ごしていたせいか、特別な日だという感覚がまるでなかった。
朝の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を薄く照らしている。まだ少し眠気の残る空気の中で、真希の声だけが妙にはっきりと聞こえた。
それにしても……。
部屋のドアも閉まっている。誰にも邪魔されないようにしているみたいだ。
そういえば……俺のスマホはどこだ?
辺りを見回してみる。
あれ? ない。
確か、寝室に置いたはずなのに……。
俺が何かを探していることに気づいた真希は、軽く咳払いをしてから、少し誇らしげな顔で説明した。
「外に置いてきたよ。邪魔されたくなかったから。私、ちゃんと考えてるでしょ?」
どうやら褒めてほしいらしい。
その言い方が妙に真希らしくて、思わず苦笑してしまった。
彼女と二人きりで過ごす時間が嫌なわけじゃない。むしろ、こうして静かに過ごす時間は心地よかった。
ただ、スマホまで遠ざけてしまうあたりが、いかにも彼女らしい。
俺はそんな真希を抱き返し、しばらくそのままでいた。
窓の外から聞こえる鳥の声と、時計の針が進む音だけが部屋に響いている。
何かを話さなくても、不思議と気まずくはなかった。
ただ隣にいる。
それだけで十分だった。
「ありがとう、真希。嬉しいよ」
真希は小さく首を振って、俺にだけ向けるような柔らかな笑顔を見せた。
「まだ足りないよ。誕生日は一日中続くんだから、プレゼントはゆっくり待ってて。約束してくれる?」
「はいはい、約束するよ。ところで、いつまでこうしてるんだ? 嫌じゃないけど、そろそろ……」
そこまで言ったところで、腹の虫が鳴った。
静かな部屋だったせいで、その音は思った以上によく響いた。
……最悪だ。
自分でも分かるくらい恥ずかしくなったけど、真希はとうとう笑いをこらえきれなくなった。
「どうやら、あなたの胃袋はロマンスよりご飯のほうがお好みみたいだね?」
くすくす笑いながら、真希はシャツ越しに俺の腹へそっと手を当てた。
「何か食べさせれば落ち着くと思うよ。朝ごはん、何がいい?」
普段なら、彼女が適当に決めて作ってくれる。
だから、こうして改めて聞かれると、なんだか妙な感じがした。
「何でもいいよ。君も好きなもので。一人で食べるのは嫌だから」
「ふふっ、じゃあ一緒に食べようか」
そう言って、真希は少し嬉しそうに笑った。
そのまま俺の腹に手を置いたまま、シャツの上から指先で小さな円を描き始める。
最初は何とも思わなかった。
けれど、何度も指先が動くにつれて、少しくすぐったくなってきた。
俺は笑いそうになるのを必死にこらえた。
でも……。
真希が俺の顔を覗き込むようにして、ゆっくりと顔を上げた。
どうやら、俺が何かを我慢していることに気づいたらしい。
その瞳に、無邪気な好奇心が浮かぶ。
そして、俺の反応を確かめるように見つめたあと、彼女の唇がゆっくりと共犯者のような笑みに変わった。
「どうやら、誰かさんは笑いをこらえてるみたいだね~~」




