私とアリス
「忙しい、忙しい!」
首から提げた大きな懐中時計の秒針を確認しつつ、私は猛ダッシュする。
腰に届く白い髪が風に靡き、相反する黒い耳がピコピコ揺れた。
ずれかけたモノクルを指先で押し戻すと、再び風を切って走る。
黒の執事服の裾がぴらぴらと揺れ、それが尻尾に擦れてほんの少しだけくすぐったい。
次に仕立て屋を呼ぶ時はもう少し短くすると頭の中のスケジュール帳に書き込んでいると、どんと横から衝撃が走った。
「やあ!今日も元気に走り回ってるんだね、可愛い僕のウサギさん!」
ぎゅうぎゅうと自分を抱きしめる相手に、はんなりと眉間に皺が寄る。
こうしている間にもスケジュールは押している。
いつだって手帳と時計を片手に走り回っている私をよく知っているのに、この襲撃者は毎度毎度遠慮というものがなかった。
「アリス!手を離してください!私には女王陛下のために働いているんです。あなたとの会話の予定は一分一秒も取り入れておりません。完璧なスケジュールにひびが入ります!」
「え~?いいじゃない、僕とウサギさんの仲なんだから」
「敢えて言うなら、知り合い以上友人未満の関係です。親しくもないのにみだらに女性に触れるのは無作法です!」
「え!?僕の中では恋人以上婚約者未満だよ!?」
「───っ」
あまりにもありえない発言をあっさりとしたアリスに、我慢ならず首を直角に上げた。
アリスとは女性名だが、私を腕に抱く存在はれっきとした男だ。
しかも小柄なウサギの私と違い、優に180を超える筋骨隆々の彼に、これほど名前と見た目が会わない人間は見たもないと第一印象を抱いたのは、もういつのことだっただろうか。
不思議の国に迷い込んだ好奇心旺盛の少年は、年を経て青年となった今も、未だに時計ウサギを追いかけてくる。
普段はどこで生活してるのか知らないが、少なくとも我が城でないのは確かだ。
だとすると他には芋虫か、帽子屋か。
どちらにしてもあまり進んで会いたい手合いではないので、居所を確かめる気もなかった。
腰に腕を巻きつけて軽々と抱き上げると、長い耳に無遠慮に頬を摺り寄せるアリスに眉間に皺が寄る。
先ほども言ったとおり、私は分刻みのスケジュールで動くほど忙しいのだ。
敬愛する我が城の女王様の右腕として、忠実なる臣下としての職務がある。
こんな好奇心旺盛なだけの、見た目だけ成長した子供の相手をする暇はない。
空中でぷらぷらと投げ出されていた足に力を篭め、膝頭を思い切り蹴りつける。
一瞬束縛が強くなり、次の瞬間には硬い地面の上に着地した。
そのまま自慢の脚力でぴょんと一飛びに距離を取ると、踵を基点に振り返る。
亜麻色の髪とブルーの瞳をした逆三角形の体型の青年は、格好よくはないがどこか愛嬌がある顔できょとりと瞬きを繰り返した。
じっと私を見詰めるアリスの眼差しは、彼がこちらの世界についてきたときから変わらない。
無駄に一途で盲目的なそれに柳眉を寄せて、重くて深いため息を吐き出した。
「いいですか、アリス。何度も申し上げますが、私は女王陛下の忠実な僕にして城の重鎮です。私の仕事はあなたが思う以上に重要なものであるからにして、今後は二度と邪魔をしないようお願いします」
もう何百回目になるか判らないだが、モノクルを指の腹で押し上げつつも一応忠告してみせる。
するとまじまじと自身より遥かに小さな身体をした私を見下ろして、にぱっと体格に合わぬ無邪気な笑顔を浮かべた。
「うん、わかったよ!僕はウサギさんの邪魔はしない。約束するよ」
にこにこと頷いて気をつけの姿勢をした彼に、こくりと一つ頷く。
きっとこれも次に自分を見つけるまでの間だけ有効な仮初の口約束なのだろうと理解しつつ、遅れたスケジュールを取り戻すために再び私は走り出した。
*ウサギ・・・身長145cm前後の小さなウサギ。髪の毛は真っ白で瞳は赤いが、耳と尻尾は真っ黒。常に時計を手放さず、幼い女王のためにとスケジュールを組んで分刻みで働く忠臣。見た目は小動物らしくお目目ぱっちりで愛らしいが、中身は若くして地位を得ただけあって結構な策略家でもある。敬愛する女王陛下が立派になられるまで支えることを人生の生き甲斐にしている。
*アリス・・・時計ウサギを見て好奇心に誘われるまま異世界に来てしまった少年。人見知りせずに、懐こい性格と憎めない性質からなんやかんやで身寄りのない世界でも普通に生活できている。大人の見た目に子供の性格を宿しているので、どうして自分がこんなに時計ウサギばかりを追いかけているか、理由は判って居ない。
*帽子屋・・・時計ウサギを気に入っている、皮肉屋で享楽家の男。本命はウサギだが、女性関係は割りとだらしない。自堕落で面白いことが好きなので、アリスのことも退屈しのぎには丁度良いと気に入っている。
*女王陛下・・・御年9歳になられたばかりの女王陛下。腹心であるウサギを誰よりも信頼して、姉のように慕っている。本当は大好きなウサギを常に独占していたいが、自分のために働いてくれていると知っているので我儘は言わないよう我慢している。しかし十年後には色々な意味で『女王様』と呼ばれる逸材に変じ、思う存分独占よくを発揮する。




