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24 信じる医術


「綾子」

 その日、綾子の姿は中村邸にあった。


「わがままを受け入れてくださいまして、ありがとうございます」

「いいえ。私も、綾子から説明を聞きたいと思っていたの」


 貴族たちの医術を担当するのは、主に医術院の医術師たち。だから、本来は杉田たちの担当だ。


 しかし、中村桜子だけは、綾子にやらせてほしいと頼んだ。彼女の病気は、予防接種の時にも注意が必要だったから。


 対処を教えて頼むこともできたのだが、麻疹が流行している時、中村邸には行けなかった。だから久しぶりの体調確認のためでもある。


「まず、使う道具は、これです」

「注射器ね」

「はい」


 これは見慣れているのか、桜子はためらわずに受け入れる。


「これに弱らせた菌という病の種を入れ、腕に注射して体内に入れます」

「……病の種を入れるなんておそろしいわ。大丈夫なの?」

 その言葉には、わずかに不安そうな表情を見せた。


「これ自体は問題ありません。お嬢様のご病気は、注射に対して不安を覚える場合もあるので、注意しておきたいと思ったまでにございます」

「そう。綾子がそう言うなら大丈夫ね」


 絶大な信頼をおいてもらえるのはありがたい。


「疫病をあらかじめ防ぐ効果がありますが、身体に針を刺すので痛いですし、熱が出たり刺した部分が赤く腫れたりします。あくまで任意ですので、拒むこともできます」


「それくらいなら大丈夫。私、身体は丈夫なのよ。……って、病にかかった後ですもの。説得力ないかしら」

「……そのようなことはございません」


 おどけたように肩をすくめる桜子に、綾子はふっと笑った。


「綾子がそこまで言うなら、きっと大切なものなのでしょう? 私は大丈夫よ。打ってちょうだい」

「ありがとうございます」

 桜子の了承を得て、綾子は注射の準備をする。


「緊張するわね。痛くしないでちょうだいね」

「注射は痛いものですよ」

「まぁ……」


 ふふっと笑う桜子の表情を見て、大丈夫だと信じ、

「チクっとします」

 針を腕に当てた。血管にそって寝かせ、ゆっくりと針を入れる。


「……っ」

 桜子の息がきゅっと詰まるのを感じた。血管に入る感触を確認してから、


「一度息を吐いてください。動かずに」

「え、えぇ……」


 緊張状態はよくないと、そう告げる。桜子は言われた通りに息を吐く。


「これから薬を入れます」

「えぇ。わかったわ」


 注射したところと、桜子の表情。両方を見ながらゆっくり薬液を入れていく。

「……ぅっ」

 桜子の表情が痛みに歪む。しかし、手を止めることはなかった。


「はい、終わりました」

 針を抜くと、桜子は詰まっていた息をはぁっと吐いた。


「……ふふ。思ったより痛くなかったわ」

 嘘だ。あんなにつらそうだったのに。


「これなら、お友達にもおすすめできるわね」

「すすめていただけるのですか?」

 綾子は注射器をそばに置いて問う。


「大切なものなのでしょう? 少しも痛くなかったって言っておくわ」

「ありがとうございます」


 貴族の間では、まだ不信感を訴える者が少なくない。医術院に任せているとはいえ、貴族が予防接種を受けなければ、流行り病の危機にさらされる人々の元に薬は行きわたらないのに。


 そんな貴族たちの中で生きる桜子の言葉ひとつで、何か変わるかもしれない。今はそんな小さな希望にさえもすがる時期だ。


「ねぇ、綾子。今日はかんざしをしているのね」

「あ、はい。母の形見です」

「見せてもらってもいいかしら」

 そう言われ、綾子は髪からかんざしを抜いて、桜子に渡した。


「……繊細な細工だわ。きっと腕のいい職人が作ったのね」

「高価な銀で作られているので使うか迷ったのですが、格式の高い場にはふさわしいかと」


 今日はただの往診の一環だが、貴族の家に出入りするのだからと選んだ。お守りの意味もあるのだから。


「その通りよ。いったいどこでこれを……」

「母のものを、最近まで兄が保管してくれていました。母がどこで求めたのかまではわかりません」

「それもそうね。綾子のお母君は亡くなられているのだったかしら」

「はい。10年前に」


 そう答えて、ハッとした。そうか、もう10年が経ったのか、と。


「大切にしないとね。牡丹の花のかんざしなんて珍しいのだから」

 桜子は丁寧に返してくれた。


「そうそう。綾子のおかげで社交界に参加できるようになったから、この前もお茶会に行ってきたのよ」

 明るい話題に変わり、綾子は話し相手になった。




「姉さま、お夕飯ができました」

 露子が呼びにきた。


「今日は淡路兄さまが手伝ってくださったのですよ」

「よかったですね」


 包丁や火の扱いには慣れている。それにそばには弟子たちの誰かがついていてくれる。だから、料理を露子に任せることも多かった。


「兄さま!」

 通りかかった部屋の襖を、露子が勢いよく開ける。

「露、返事を待ってから開けなさい」


 まず妹に注意をし、

「兄上、失礼いたします」

 綾子も兄の部屋を覗く。


「もうそんな時間か」

 読書をしていた弦太郎が穏やかに笑った。


「……また父様の医学書を?」

 兄の表情を見て、綾子は察した。少しだけ影の差した笑顔の時は、難しいことを考えている時だ。


「全てを教わったわけではないからね。いつでも対処できるように、しっかり覚えておこうと」

 もう全部覚えているはずなのに。それでも兄が憂いる何かがあるのだろう。


「兄さま、今日は兄さまが好きな魚の煮付けですよ。俊兄さまがお魚屋さんからお礼にいただいたそうです」


「それは嬉しいね」


 露子なりに兄を元気づけようと明るく甘える。それを察して、弦太郎は露子の頭を撫でた。


 綾子は、そっと医学書に目を落とす。開かれていたのは、内臓を取り出す手術の項目。確かに難しい手術だ。父がしていた記憶もほとんどない。


 こんなことが、本当に可能なのだろか。そんな不安も、なくはなかった。しかし、頭を振ってそんな考えを払う。


 信じること。医術を。患者の力を。神を。そして、父を。それが、この医術には不可欠なのだから。


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