23 お守り
「ただいま戻りました」
「姉さま!」
診療所に戻った瞬間、露子が飛び出してきた。
「何事ですか」
露子は慌てて姉に飛びつき、ぎゅっと抱きしめて見上げる。
「……よかった」
その目には涙が溜まっていた。
少し遅れて、弦太郎と残っていた弟子たちも出てくる。
「おかえり、綾」
弦太郎は心配そうに、しかし次には笑顔になり、綾子を迎えた。
「予防接種の普及を指示していただけるそうです」
「おぉ……!」
弟子たちの中から歓声があがる。
「まずは医術師、そして貴族から予防接種を行うことになります」
「……うん」
兄の顔が、喜びに綻ぶ。
「よくやったね」
これで、これからこの病気で亡くなる人を減らせる。きっと兄も同じ気持ちなのだろう。
「皇帝陛下が、この国の医術師を信じると仰っていました」
次に綾子の口から出た言葉に、全員がしんと静まり返る。
「私は、皇帝陛下のそのお言葉に、お気持ちに、応えたいと思います」
「……そうだね」
弦太郎が静かに息を吐く。
「それが、僕たちにできることだ」
「はい」
綾子の真っ直ぐな返事に弦太郎は微笑み、その頭に手を添える。
「お守りが役に立ったみたいでよかった」
「え?」
そして、綾子の頭にささったかんざしを抜く。
「母上が大切にしていたものでね。今までは、僕が持っていたんだけど」
「え、ずるいです!」
露子が思わず声を出す。
「綾子に託してよかった」
このかんざしは、兄が、母との思い出とともに思いを妹に託したものだったのか。
「あげるよ、綾。僕にはもう必要ない」
弦太郎が差し出したかんざしを、綾子は両手で受け取る。
「ずるい! 露もほしいです!」
妹から伸びてくる手から避け、そのかんざしを優しく包み込んだ。
「露ももう少し大きくなったらね」
不満そうな露子を、弦太郎がなだめた。
その日の夜、綾子は縁側で夜空を見上げていた。手にはあのかんざし。銀色が、月明かりにキラキラ輝く。
母の形見だと言っていた。綾子も知らなかった。きっと早い段階で兄は母からこれを譲り受けていたのだろう。
銀なんて、いったいいくらするのだろう。母はどこでこれを手に入れたのだろう。田舎でこんなものを売る店は、そんなにないはずだ。
その時、そばの障子が開く。
「あにう」
兄が入ってきたのかと振り返ると
「岩木様……」
そこに立っていたのは岩木だった。
「まだ休まれないのですか?」
「それは綾子さんも同じでは?」
岩木はそう答えて、綾子の隣に座る。
「……お酒の匂いがします。飲んでますか?」
「少しだけ」
「少しだけでこんな匂いはしません。……ほどほどにしないと、身体を壊しますよ」
綾子の注意に、彼は酔っているのはふっと鼻で笑った。
「何をしているんですか?」
「星を数えるおまじないがあるんです」
綾子はそれに答えて空を見上げる。輝く星々は、相変わらず空高くにあって。手が届きそうにない。
「死んだ人は星になって、空から見ていてくれる。父からそう教わりました」
「……疫病で亡くなった人も?」
「はい。きっと」
空を見上げる理由がまた増えた。語りかける人が、また増えただけ。
「眠れない時は星を数えなさい、と言われました。それからずっと、眠れない時はこうやってます」
空に手を伸ばし、指で星をなぞりながら、ひとつ、ふたつ、と数える。
「それで眠くなりますか?」
「……眠くなる前に、父か兄が眠り薬を持ってきます」
思えば、星を数えて眠れたことなんて、それこそ数えるほどしかなかった気がする。ただ父と兄を待つための時間。そんな感じがした。
「ハハハッ」
小さな声が聞こえた。その声は、笑っていた。
珍しい。不愛想な彼が笑うなんて。
「……おもしろい話はしていませんが」
「そうですか」
彼はくくくっと喉を鳴らしながら笑う。
「貴女は、医術の腕は確かで、非のない人だと思っていました」
「……私も人間です。できないこともあります」
「確かに」
否定されなかったことに、なんとなく釈然としない感じを覚えながら、
「随分酔っていらっしゃるようですね」
と言ってみる。拗ねたような声になってしまった。
「酔ってないと、好いた女の部屋を夜に訪ねるなんてこと、できませんよ」
岩木が綾子を見た。その瞳に映る自分を見つめるように、じっと見つめ返す。
「情けないですか?」
「……いえ」
どう答えればいいのだろう。こういう話は初めてだ。
「では、俺を見てくれますか?」
「え……」
嘘や冗談ではない。それは、目を見ればわかる。ただ、答え方がわからない。
「冗談です。おやすみなさい」
彼は視線をそらして立ち上がる。
「……おやすみなさいませ」
綾子はそう答えるだけで精一杯だった。
岩木が去った後、綾子は手元に視線を落とす。
「母様」
手の中のかんざしに語りかける。
「今のは、どういうことでしょうか……」
母がいたら、真っ先に相談したのに。
初めて月の便りを受け取った時のような、居心地の悪さ。あの時は、どうしたのだったか。
確か、父に相談したはず。病気かもしれないと不安だったから。父は黙って頭を撫でてくれた。今思い返せば、恥ずかしい出来事。
この年になって、さすがにこの症状が病気ではないことは、もうわかっている。父代わりの兄に相談するまでもない。
「……どうしたらいいの」
かんざしを抱いた胸は、ドクンドクンと強く脈打っていた。




