月の神
私は、白に包まれた空間にいた。
周りには何もなく、自分の姿だけがはっきり見える。
そんな不思議な空間に、私は懐かしさを覚えた。
しばらくすると、誰かが近づいてきた。
霧のかかったその姿は、徐々に鮮明になっていく。
「ディアナ」
聞き覚えのあるその声が、私の名前を呼んだ。
顔は見たことがないのに、私は彼女を知っている気がする。
「あなたは……」
私は思い浮かんだ言葉を口にする。
「月の神様……ですか?」
私がその言葉を口にした瞬間、ガラスが割れるような音が響いた。
今まで霞んで見えていた顔が、霧が晴れるようにはっきりと姿を現す。
アイセルのように白く、彼よりも長く輝く髪。
穏やかな銀色の瞳。
彼女は慈しむように、柔らかな笑みを浮かべていた。
「ありがとう……私を呼んでくれて」
私は一瞬、呆気に取られた。
その笑顔は優しいはずなのに、どこか寂しそうで、悲しそうにも見えた。
「あなたは――」
「セレーネ」
彼女は手を振った。
すると白い空間は草原へと変わり、美しい夜空が広がっていく。
彼女は草の上に腰を下ろし、隣を軽く叩いた。
「セレーネでいいわ。ここならもう少し落ち着いて話せるでしょう。さあ、座って」
私は言われた通り、彼女の隣に腰を下ろした。
そして話を聞こうとするが、聞きたいことが多すぎて、何から尋ねればいいのかわからず、口をつぐんでしまう。
――あなたはどういう存在なのか。
――なぜ私たちを助けたのか。
――魔族を作ったのは本当にあなたなのか。
――私に力を与えたのもあなたなのか。
――なぜ……私なのか。
「質問がいっぱいって顔をしているわね」
私の心を読んだように、彼女は微笑んだ。
「全部答えてあげたいけれど、さすがに時間は無限じゃないの。だから大事なことから話しましょうか」
彼女は夜空を見上げる。
「あなたたちの考えた通り、私は人間たちがいう月の神。そして、あなたに力を与えたのも私よ」
私は思わず息を呑んだ。
「どうしてかというと……その話は長くなるから、今はひとつだけ。魔族たちを助けてあげてほしい、とだけ言っておくわ」
彼女は少し俯いた。
「でも私には、もうほとんど力が残っていないの。だから無責任に力だけを与えて、薄れていく意識の中であなたを見守ることしかできなかった。本当にごめんなさい」
申し訳なさそうな口調に、私は慌てて首を振った。
「そんなことありません!最初は戸惑いましたけど、今はこの力があってよかったと思っています。でも……どうして私なんですか?他にも適任の人が――」
セレーネは真っ直ぐ私を見つめた。
「この力はね……本当はオフィーリアにあげたいと思っていたものなの」
彼女は懐かしむように夜空を見上げる。
「あの頃の私も、すでに力をほとんど失っていた。それでも魂を分けて、オフィーリアの中に宿したの。でも、彼女の素質に目をつけたのは私だけではなかった」
彼女は拳を強く握り締めた。
「結局、オフィーリアは別の魂を受け入れた。私の魂は敗れ、彼女の奥底で眠りについたのよ」
そして再び私へ視線を向ける。
「でも奇跡が起きたわ。オフィーリアは双子を授かった。そしてその子どもたちもまた、神の力を受け入れられるほどの素晴らしい素質を受け継いでいた」
彼女の声はどこか嬉しそうだった。
「そしてオフィーリアの奥底で眠っていた私の魂は、そのうちのひとりに宿った」
その強い眼差しが私に注がれる。
まるで、私こそが彼女の希望だと言うように。
周囲に白い霧が漂い始めた。
「だから私は、その子に残された力のすべてを注ぐことにした。たとえ私自身が姿を保てなくなるほど力を失うとしても」
彼女は優しく私の頬を撫でた。
「ディアナ。あなたの力の本質は、瘴気の浄化よ。その力をもっと使いこなせるようになれば、魔族たちは本来の力を発揮できるようになるわ」
霧はさらに濃くなっていく。
「もう時間がないわ。力の使い方は、これからもあの子に教わって」
まだ聞きたいことが残っていた私は、とっさに彼女の手を掴もうとした。
しかしその手は、空気のようにすり抜ける。
「待って!あなたが負けた相手って――」
「あなたは、あなたたちはもう分かっているはずよ」
夜空が消え、空間は再び白に染まっていく。
「最後にひとつだけ……私はあなたたちの助けになりたい。だから――」
視界は完全な白に覆われた。
それでも彼女の最後の言葉だけは、しっかりと心に刻まれた。
「――」
私は目を開いた。
見慣れない天井が視界に映る。
「ディアナ、おはよう。よく眠れた?」
「……うん。ステラ、おはよう」
私はすでに起きていたステラに挨拶を返すと、すぐに部屋を出た。
向かった先は――女神像が置かれた祈りの場だった。
アイセルはすでにそこで両膝をつき、祈りを捧げていた。
その姿はとても珍しいが、私は何も言わずに女神像に近づいた。
アイセルを見習い、両膝をつき、手を合わせ、目を閉じる。
頭に浮かぶは、未来への不安だった。
(テオ様とお父様が早く回復しますように……バルドが無事でいますように)
静かな時間が続き、やがて隣りから動く気配を感じた。
目を開くと、琥珀の瞳が私を見つめていた。
「ディアナは、あの方に会ったんだね」
「うん……アイセルは、彼女のことをどれくらい知っているの?」
「そうだね……長い間思い出すことがなかったから、記憶が霞んでいたけど……今は少しずつ思い出してきたよ」
その話をみんなにも聞いてもらうため、私は他のみんなを女神像の前に集めた。
「僕は……白の魔族は、いわば月の使者だったんだ。あの方から直々に力を授かり、あの方のために働くしもべ。昔はもっといたけれど、今その力を受け継いでいるのは僕ひとりだけだ」
アイセルの話によると、白の魔族が持つ力は、その継承者が亡くなった時に記憶ごと神へ返され、次の白の魔族へと受け継がれるらしい。
だから後に生まれた白の魔族は、生まれながらにして神に関する記憶を持つことができた。
「でも瘴気が漂い始めてから、僕たちの力は濁っていったんだ。神へ力を返すことができないまま、仲間たちは去っていった」
アイセルは女神像を見上げた。
「人間からの信仰も失われていく中、このままでは月の神が完全に忘れ去られてしまう。そう危惧した僕たちは、苦肉の策として力を一か所に集めた……それが僕さ」
普段の軽い口調とは違う、どこか寂しげな声音だった。
「でも何百年もの時が過ぎるうちに、僕の力はさらに濁り、記憶も霞んでいった。いつしか自分の役目も、仕えるべきあの方のことも思い出すことがなくなってしまった……ディアナに出会うまでは」
重い告白に、誰も言葉を発することができなかった。
「ディアナと出会ってから、僕は本能的にあの方の気配を感じ取っていたんだ。そして昨日になって、ようやくすべてを思い出せた」
静まり返った空気の中、私はそっと問いかけた。
「どうして、思い出せたの?」
アイセルは私たちを見渡した。
「あの城で、あの方に近い気配を感じたんだ。まったく同じではないけれど、とてもよく似た気配だった」
彼はゆっくりと息を吸い込む。
「あの金髪の女性……アステリア様は間違いなく、セレーネ様と同じ存在――星の神だ」




