魔王テオボロスの欲望2
《テオボロス目線》
いつから、ディアナの存在はこんなにも大きくなったのだろう。
初めて出会ったあの日、あいつは感情の宿らない、無機質な目をしていた。
だが、その長く滑らかな夜空色の髪も、月光のように静かに輝く瞳も、あいつから漂う穏やかな魔力も――最初から気に入っていた。
だから、近くに置きたくなった。
しかも、あいつは何をされても逆らわず、大人しく受け入れる。
もしあれが、あの聖女のように騒がしく、すぐ反抗する人間だったなら、魔女であろうととっくに森へ捨てていただろう。
暇潰しに世話を焼いてみれば、顔を赤くしながら受け入れようとする反応が面白かった。
――いい玩具を拾った。
最初は、それくらいの認識だった。
最初の変化は、駄犬のせいでディアナが倒れた時だ。
あいつは初めて、大きな感情を見せた。
だが、その感情を向けた相手は俺じゃない。
それが、妙に腹立たしかった。
――あいつは、俺のものなのに。
しかも、その後は何事もなかったように、あの犬へ微笑みかけていた。
その姿を見るたび、何度あの犬を引き裂いてやりたくなったことか。
次の変化は、あいつが白猫に連れ去られた時だった。
ディアナがいない魔王城は、不快なほど空虚で、つまらない。
常に暴走しかける魔力とは別に、言葉にできない暗い感情が胸の奥を渦巻いていた。
――あいつが目の届かない場所にいる。
それだけで、ひどく不愉快だった。
ようやく戻って来たあいつは、瘴気に侵され、酷く弱っていた。
――俺のものが、俺ではない何かに侵されている。
そのせいで、気に入っていた瞳も、表情も、声も失われていく。
俺を映していたはずの目が、俺を見なくなる。
元凶であるあの猫を殺してやりたいほど怒りが込み上げ、魔力までも暴れ狂った。
それでも、あいつを目覚めさせるには、あの猫の協力が必要だった。
そして現れたのが、聖女と勇者――それから、ディアナに深い傷を残した人間。
聖女の力で目覚めたディアナは、俺の魔力を鎮めた。
その時は、妙に気分が良かった。
だから柄にもなく、勇者たちを城へ滞在させてほしいという願いまで聞き入れてしまった。
ディアナが嬉しそうに笑うのを見るのは、悪くなかった。
――最初だけは。
あいつは、聖女と勇者の前では、俺に見せたことがないほど柔らかい顔をする。
俺がいない隙を狙うように、聖女はディアナを独占する。
気に入らない。
不愉快だ。
聖女は見せつけるようにディアナを奪い、俺の知らない表情を引き出していく。
何度も思った。
――あの聖女さえ消えれば、ディアナはまた俺だけを見るんじゃないか、と。
だが、デビトに警告された。
もし俺が聖女に手を出せば、今度は別の意味でディアナの心を聖女に奪われる、と。
だから踏み止まった。
万が一にも、ディアナの心へ他の誰かが深く入り込まないように。
そして、“恋人”という人間のくだらない繋がりで、少しでもあいつを縛り付ける。
それが、俺にできる精一杯の譲歩だった。
だが、ディアナに消えない傷を刻んだあの人間だけは別だ。
あいつのせいで、ディアナの心には俺へ向いていない感情が存在している。
あの人間だけは、じっくり苦しめてから殺す。
今も地下牢で、デビトに死ぬ寸前まで拷問された状態で閉じ込められている。
次の闘技会は、久しぶりに楽しめそうだった。
そしてようやく、勇者たちが城を去る日が来た。
あの日さえ越えれば、ディアナの心からあいつらを追い出し、少しずつ俺だけを見るようになる。
――そう思っていた。
なのに。
聖女の助けを求める声と、絶望した表情が、再びディアナの関心を奪っていった。
水鏡など見せるべきではなかったのか?
いや、見せなくても、きっとあいつの心は聖女へ向いただろう。
なら、どうすれば良かった?
最初から聖女を近づけるべきではなかった?
この城へ入れるべきではなかった?
無理矢理にでも引き剥がすべきだった?
ディアナの望みを叶えてやりたいと思う気持ちと、あいつの関心が自分以外へ向くことへの苛立ち。
矛盾した感情が、心を引き裂いていく。
そんな状態で、ディアナを人間の国へ返せば――今度こそ、あいつの心は俺から離れていく。
そんなの、耐えられない。
俺は、ディアナの全部が欲しい。
最初は、気に入った所有物として手元に置きたかっただけだ。
だが今は違う。
あいつの関心も、感情も、執着も、何もかも他のやつへ向けてほしくない。
たとえ、強引な手段を使ってでも――
『テオ様と……“番契約”を結びます!』
――番契約。
とっくに廃れた、魔族同士の契約。
たった一人、一生を共にしたい相手と結び、互いを縛る契約だ。
契約を結んだ相手は、“相手が強く望まないこと”をできなくなる。
使い魔契約に匹敵するほど強力だが、一方通行ではなく、双方へ作用する。
だが魔族は、縛られることを極端に嫌う。
だから、こんな契約を結ぶ者など、今ではもう存在しない。
「お前は……その契約の意味を理解した上で言っているのか?」
「はい……書庫の本で読んだことがありますし、デビトさんからも説明を受けました」
(……デビトの入れ知恵か)
「契約を結んだらどうなるか、本当にわかっているのか?」
「はい。相手が望まないことを、できなくなるんですよね?」
「それだけじゃない。お前と俺で結んだ場合、お前は俺に逆らえなくなる」
この契約が厄介なのは、互いの願いが矛盾した時だ。
例えば、一方が『誰にも会わせたくない』と願い、もう一方が『自由を縛られたくない』と願った場合。
弱肉強食の魔族社会では、魔力の弱い方が強い方へ従う。
つまり、魔力の少ないディアナは、俺に逆らえない。
正直、俺にとっては都合のいい契約だった。
ディアナが自分から言い出した以上、今すぐ結びたいくらいだ。
だが同時に、不安もあった。
自分の欲望が、ディアナを押し潰してしまうんじゃないか、と。
案の定、こいつはあっさりと言った。
「私は、それでも構わないと思っています」
本当に、こんな隙だらけの人間がよく今まで生き残れたものだ。
――だが。
続く言葉は、予想外だった。
「テオ様は、どれだけ欲深くても……私を傷つけることだけはしないって、わかっていますから」
心が、大きく揺れた。
どれだけ欲しても。
どれだけ独占したくても。
こいつが苦しそうに歪む顔だけは、見たくないと思っていた。
案外、ディアナは俺の奥底まで見抜いているらしい。
衝動のまま、もう一度口付けようとした瞬間。
ディアナは慌てて俺の顔を押し返し、大きな声を上げた。
「ですが! 契約を結ぶのは、ステラの様子を確認してからです!」
口付けを邪魔された不満を抱えながらも、俺は思考を巡らせる。
(……まあ、国へ返しても何かあれば俺が片付ければいい。さっさと終わらせて、すぐ連れ戻せばいいだけか)
我ながら、ずいぶん簡単に言いくるめられている気がする。
だが、こんな甘い餌をぶら下げられて、見逃せるはずがない。
「……いいだろう。俺と、デビトたち全員で行く」
何かあった時、ディアナを守る盾は多い方がいい。
「だが――帰って来たら、俺の欲望を受け入れてもらう。その時は覚悟しろ」




