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「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


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第9話 沈黙の重さ

 朝が来ても、昨夜の空気は消えなかった。


 暖炉に薪をくべる。火をかき混ぜる。水を汲みに行く。

 すべて同じ手順だ。

 だが、手の動きが一拍ずつ遅い。

 沢までの道を歩きながら、頭の中で数字を並べていた。


 塩の残量。穀物粉の残量。干し肉の在庫。

 マルクスが次に来るのは、春の初め。およそ二ヶ月後。

 一人分なら余裕がある。

 二人分では、計算が変わる。


 計算は好きだ。

 数字には感情がない。入力と出力があり、その関係は一定だ。

 薪の消費量。食料の減少率。栄養の最低必要量。

 変数を並べ、制約条件を設定し、最適解を求める。

 生き延びるための方程式。

 ここ数年、その方程式に自分以外の変数を入れたことはなかった。


 桶に水を汲む。

 手が冷たい。

 冷たさが、思考を鋭くする。


 リュシアン。

 公爵家の血筋。無実の罪で追われている。王都の兵が北限まで来ている。

 変数として入力すると、方程式の解は明白だ。

 追い出すのが最適解。

 匿い続ければ、やがて追手がここに辿り着く。

 その時、自分一人なら問題ない。知らぬ存ぜぬで通せる。

 だが、あの男がいれば、選択肢が減る。

 戦うか、逃げるか。

 どちらにしても、この小屋を失うリスクがある。

 この小屋は、自分が作った世界だ。

 壁板の一枚一枚を自分の手で補修し、暖炉の石を組み直し、屋根の雪を下ろし続けてきた。

 数年かけて完成させた、一人で完結する生態系。

 それを、拾った人間一つのために危険に晒すのは、合理的ではない。


 合理的ではない。


 桶を抱えて坂を登る。

 小屋が見えてきた。

 煙突から白い煙が上がっている。

 暖炉の火は、自分が出る前にくべた薪が燃えているだけのはずだ。

 だが、煙の量がわずかに多い。

 あの男が、薪を追加したのだろう。

 勝手に。

 指示していないのに。

 寒くなってきたから火を強めた、という単純な判断。

 あるいは、自分が戻ってきた時に部屋が暖かいように、という計算。

 ——後者は、考えすぎだ。


 扉を開ける。

 室内は暖かかった。

 やはり薪が追加されている。

 リュシアンは壁際の寝場所にいた。

 毛布を被り、木箱の上に椀を置いて、朝の薬草湯の残りを飲んでいる。

 こちらが入ってきた瞬間、身体が固まった。

 椀を持つ手が震えている。

 目が合う。

 すぐに逸らされた。


 昨夜、名前を告げた。

 ここにいたいと言った。

 「勝手にしろ」と返した。

 だが、一晩明けて、あの男の中で恐怖が戻っている。

 夜の勢いで言ってしまったことへの後悔。

 あるいは、答えが「勝手にしろ」だった以上、それは許可ではないという解釈。

 事実、許可はしていない。

 追い出しもしていない。

 宙に浮いたまま、朝が来た。


 桶を土間に置く。

 棚から塩を取り、粥の鍋に加える。

 昨夜の残りだ。温め直す。

 一人分を椀に盛り、自分で食べる。

 リュシアンの方を見ない。


 沈黙が、固形物のように部屋を満たしていった。


 *


 作業は続けた。

 外の雪かき。薪棚の整理。罠の確認。

 すべて一人でやった。

 いつもなら、リュシアンが後をついてくる。

 薪を運ぶ。雪をかく。椀を洗う。

 この数日で身についた、小さな日課。

 今日は、出てこなかった。

 毛布の中で、丸くなっている。

 第一夜の姿勢だ。

 膝を抱え、頭を覆い、なるべく小さく。


 退行。

 声が出るようになり、名前を名乗り、意志を持ち始めた人間が、再び荷物に戻ろうとしている。

 捨てられる前に、自分から荷物になることで、痛みを減らそうとしている。

 その心理は、理解できた。

 動物でも同じことをする。

 群れから排除される個体は、排除される前に端に移動する。

 追い出す手間を省いてやるのは、最後の所属行為だ。


 午後。

 日が傾き始めた頃、暖炉の薪が減っていた。

 リュシアンがくべるべき番だったが、動いていない。

 自分で薪を追加した。


 リュシアンの方を見た。

 毛布の隙間から、目だけが覗いていた。

 乾いた目。

 涙はない。

 あの夜の悪夢と同じだ。泣く水分がないのか、泣くことを許さないのか。

 だが、目の奥には、もう恐怖はなかった。

 その代わりにあるのは、諦めだ。

 追い出される覚悟。

 この暖かい場所を失う覚悟。

 名前を呼ばれない日々に戻る覚悟。


 何かを言うべきだった。

 追い出すにしても、残すにしても、宣告すべきだった。

 だが、言葉が出なかった。

 自分は元来、言葉を使わない人間だ。

 行動で示す。結果で語る。

 それが流儀だった。


 だが、今、必要な行動が見つからない。

 方程式の解は「追い出す」だ。

 手は、追い出す方向に動かない。

 頭と手が、違う答えを出している。

 その不一致が、この沈黙を生んでいた。


 窓の外で、雪が降り始めた。

 細かい粉雪が、風に煽られて渦を巻いている。

 夕方までに積もるだろう。

 夜はさらに冷え込む。


 沈黙は、まだ続いていた。

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