第8話 名前
男が薪を運んで戻ってきた。
三本。
一週間前は二本が限界だった。腕が太くなったわけではない。要領を覚えたのだ。薪の重心を身体の近くに寄せ、腰ではなく脚で支える。教えたわけではない。毎日繰り返す中で、身体が勝手に最適解を見つけたのだろう。
土間に薪を下ろす音が、いつもより丁寧だった。
崩れないように、一本ずつ並べている。
以前は放り投げていた。最初の頃は、持っている力が足りなくて転がすしかなかった。今は、置く場所を選んでいる。
背を向けたまま、指輪のことを考えていた。
今朝、男が水を汲みに出た隙に、寝場所の毛布を調べた。
指輪は左手の薬指にある。
外す気配はない。肌に食い込むほど痩せた指に、銀色の輪がはまっている。
だが、石の面に刻まれた紋章は、枕元に手を伸ばした程度では見えなかった。
直接、手を取って見る必要がある。
そこまでする理由が、自分にあるのかどうか。
マルクスの言葉が頭に残っている。
王都の兵。紋章入りの外套。
あの男の悪夢。紋章。父上。やっていない。
点と点が、線になりかけている。
繋げたくない線だ。
繋がれば、この小屋に厄介事が転がり込む。
「……あの」
声がした。
背後から。
掠れてはいるが、以前よりも明瞭だ。喉が回復してきている。
振り返らない。
棚に並べた乾燥豆の袋を、奥から手前へ入れ替える作業を続ける。
「あなた、に……話さなければ、ならない、ことが……」
句読点のない、息継ぎだらけの文。
だが、文章だ。
単語の羅列ではなく、構造を持った言語。主語があり、述語がある。
男の言語能力が、ここまで回復していたことに気づいていなかった。
——いや、気づいていて、無視していた。
手を止めた。
振り返る。
男は土間に膝をつき、両手を膝の上に置いていた。
正座に近い姿勢。
この一週間で初めて見る、意図的な礼節を持った姿勢だ。
顔は下を向いている。視線を合わせようとしない。
だが、逃げているのではない。
これから何かを言うための、覚悟の間だった。
「私の名前は」
男が顔を上げた。
暗い色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
恐怖の色は消えていない。だが、その奥に、別のものが見えた。
決意。
あるいは、賭け。
「リュシアン……と、申します」
敬語。
この男が発した最初の敬語だった。
「みず」でも「ちがう」でもなく、名乗り。
音にすれば五秒にも満たない。
だが、その五秒が、この部屋の空気を変えた。
名前。
荷物に名前がついた。
装飾品にラベルが貼られた。
——違う。
名前を持つということは、固有の存在であるということだ。
代替不可能であるということだ。
「拾った男」では、いつでも捨てられる。
「リュシアン」になった瞬間、捨てるには名前を呼ぶ必要がある。
黙っていた。
男——リュシアンは、沈黙を恐怖と受け取ったのか、言葉を続けた。
早口になる。掠れた声が割れる。
「わ、私は……公爵家の……ですが……追われて……無実の、罪で……」
「知っている」
遮った。
短く、低く。
リュシアンの口が、開いたまま止まった。
「寝言で聞いた。紋章がどうの、父上がどうの。やっていないと」
リュシアンの顔から、血の気が引いた。
唇が震える。
寝言を聞かれていた。最も無防備な瞬間を、この暴力装置に把握されていた。
恐怖が戻ってきている。だが、今度は違う種類の恐怖だ。
殺される恐怖ではなく、追い出される恐怖。
「で」
一文字。
リュシアンの震えが止まった。
「……で、とは」
「それで、お前は何が言いたい」
問いかけは、刃よりも冷たかった。
事実の確認。感情の排除。
お前が何者であるかは、すでにおおよそ分かった。
問題は、お前が何を求めているかだ。
リュシアンの手が、膝の上で握りしめられた。
関節が白くなる。
布を巻いた指先が、震えていた。
だが、目は逸らさなかった。
「……ここに」
声が途切れた。
喉仏が上下する。
唾を飲み込む音。
「ここに……いても、いいですか」
静寂。
暖炉の火がパチリと爆ぜた。
その音だけが、二人の間を通り抜けた。
ここにいたい。
連れ戻してほしいでも、助けてほしいでも、匿ってほしいでもなく。
ただ、ここに。
この小屋の、この暖炉の近くの、あの毛布の上に。
存在する許可を。
リュシアンの目には涙はなかった。
泣くような水分が身体に残っていないのかもしれない。
あるいは、泣くことはこの男にとって、最も許されない行為なのかもしれない。
乾いた目が、ただ、こちらを見ていた。
腕を組んだ。
壁にもたれる。
リュシアンから視線を外し、暖炉の炎を見た。
赤い光が、丸太の表面を舐めている。
「勝手にしろ」
それだけ言って、棚の整理に戻った。
リュシアンが何かを言おうとした気配がしたが、声にはならなかった。
膝をついたまま、頭を下げる気配。
深く。
額が床板に触れるほど深く。
構わない。
好きにさせておけ。
夕食の支度に取りかかる。
鍋に水を入れ、穀物粉を溶く。
今日は粥だ。
マルクスが持ってきた穀物粉を、初めて使う。
塩を一つまみ。干し肉を細かく刻んで加える。
粥が煮立つ間に、壁際を見た。
リュシアンがいつも寝ている場所。
毛布の傍に、古い木箱を置いた。
中身は空だ。
だが、蓋を閉めれば小さなテーブルになる。椀を置ける。
いつ置いたのかは、自分でも分からない。
今日の昼、マルクスとの取引の前だったか。
あるいは、もっと前か。
リュシアンが顔を上げた。
木箱を見て、それからこちらを見た。
視線が交差する前に、背を向けた。
鍋の粥をかき混ぜる。
穀物の甘い匂いが、部屋に広がった。




