表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/11

第7話 外の世界

 煙が見えた。


 東の尾根を越えた先、谷筋に沿って立ち昇る白い筋。焚き火の煙ではない。もっと薄く、幅広い。馬か驢馬の吐く息が、冷気に白く凝固したもの。

 複数の温かい身体が、この山域に入り込んでいる。

 スコップの柄を握ったまま、目を細めた。

 距離はおよそ半里。この雪の中を進む速度を考えれば、ここに着くのは昼過ぎだ。


 身体が動いていた。

 小屋に戻り、扉を開ける。

 男は土間で水桶の近くにしゃがみ、椀を洗っていた。

 拾った日から数えて七日目。この男は、椀を洗い、床を拭き、薪を運ぶことを覚えた。指に巻いた布は汚れて灰色になっているが、まだ巻いている。

 男がこちらを見上げた。

 掠れた声で何か言おうとしたが、視線が凍った。

 こちらの顔に、何かを読み取ったのだろう。


「奥に入れ」


 低い声で言った。

 男の瞳孔が開く。

 恐怖。ではない。もっと複雑な、状況を測ろうとする目。

 だが、従った。

 椀を置き、這うように奥の壁際へ移動する。寝場所にしている毛布の塊の中に、身を沈めた。


 棚の上段から、使い古した鹿革のシートを引き下ろす。

 それを男の上に掛けた。

 革の色は壁板と同じ茶褐色で、塊の形をしていれば荷物にしか見えない。

「動くな。声を出すな」

 毛布の下から、小さく頷く気配がした。


 *


 マルクスは予定通り昼過ぎに現れた。


 荷を積んだ驢馬を一頭引き、毛皮の外套をぐるぐる巻きにした中年の男。

 赤い鼻先が、凍結した鼻水で光っている。

「よう、オルガ。生きてたか」

 挨拶は毎回同じだ。生きていることを確認するための問いではなく、生きていて当然だという前提の、形式的な発声。

「入るな。そこで話せ」

 戸口を塞ぐように立ち、腕を組む。

 マルクスは慣れた様子で肩をすくめた。

「相変わらずだな。まあいい。品物を見てくれ」


 驢馬の背から荷袋を下ろし、雪の上に広げ始める。

 塩の袋。穀物粉。乾燥豆。蝋燭の束。縫い針と糸。

 北限の地で手に入りにくいものばかりだ。

 マルクスは年に三度、この山域を巡回する。秋の終わり、冬の半ば、春の初め。

 冬の半ばの便は、最も品物が少なく、最も値が張る。

 視線を品物の上に走らせる。

 穀物粉は五日分。塩は二週間分。

 ——いつもの倍、必要になる。


「塩を二袋。穀物粉も二袋。豆を一袋」

「……二倍か?」

 マルクスの眉が上がった。

「腹でも壊したか。食が進まないのを粥で補う算段か」

「黙って包め」

 支払いは干し肉と毛皮。先月仕留めた鹿の余剰分だ。

 マルクスは品物を選り分けながら、ちらちらとこちらの背後——小屋の方を見ていた。

 商人の目。値踏みではなく、情報収集の目。

 この男は、北限の地を歩く。集落から集落へ、小屋から小屋へ。

 物だけでなく、噂を運ぶ。誰が死に、誰が生き、何が起きたか。

 情報は、この辺境では塩と同じ値打ちがある。


「なあ、オルガ」

 マルクスが手を止めた。

「下の街道で兵を見た。王都の方から来た連中だ。紋章入りの外套を着てた。この時期にこんな北まで来るのは珍しい」

 手が止まりかけた。

 止めなかった。

 干し肉の束を数える動作を、そのまま続ける。

「それで」

「いや、別に。ただ、珍しいと思ってな。冬の真っ只中に、王都の連中がわざわざ北限に来る用事なんぞ、ろくなもんじゃないだろう」

 マルクスの目が、もう一度小屋の方を向いた。


 窓。

 小さな、手のひら大の窓。

 そこから漏れる暖炉の光は、いつもと変わらないはずだ。

 だが、マルクスの目は何かを捉えたのか、一瞬だけ留まった。


「病人がいる」


 自分でも予想しなかった言葉が、口をついて出た。

 マルクスの視線がこちらに戻る。

「病人?」

「冬の初めに熱を出した旅人を、拾った。まだ寝込んでいる」

 嘘ではない。

 拾ったのは事実だ。寝込んでいるのも、半分は事実だ。

「へえ、お前が人を拾うとはな」

 マルクスの口元に笑みが浮かんだ。驚きではなく、面白いものを見た商人の笑み。

「感染するから近づくな。取引が終わったら帰れ」

「はいはい」


 品物と対価の交換を終え、マルクスは驢馬の手綱を取り直した。

 雪を踏みしめる音が遠ざかっていく。

 足を止めた。

 振り返った。

 小屋の窓の方を、もう一度。

 視線が数秒、留まった。


 それから、何も言わずに歩き出した。

 驢馬の背に積まれた荷が、歩くたびに軋んだ音を立てる。

 白い息の筋を引きながら、マルクスの姿は尾根の向こうに消えた。


 *


 扉を閉めた。


 革のシートを剥がすと、男が丸まっていた。

 目を開けている。

 動くなと言ったから、動かなかった。声を出すなと言ったから、声を出さなかった。

 律儀な荷物だ。


 買い込んだ品物を棚に並べる。

 塩の袋を持ち上げたとき、重さが手に実感を伝えた。

 二人分の塩。二人分の穀物粉。

 マルクスに量を聞かれた。

 理由を説明する必要はなかった。「病人がいる」と言えば済んだ。

 だが、品物の量が、数字として残る。

 マルクスは覚えている。次に来たとき、「病人はどうなった」と聞くだろう。

 その時、何と答えるか。


 男が毛布から上半身を出していた。

 視線が、オルガの手元——塩と穀物粉の袋——と、オルガの顔を行き来している。

 何かを理解しようとしている目だった。

 なぜ隠したのか。なぜ病人と嘘をついたのか。

 答える気はない。


 窓の外を見た。

 マルクスが去った方角。

 王都の兵。紋章入りの外套。

 指輪の紋章。

 昨夜の悪夢の断片。


 棚の塩を整え終え、暖炉に薪をくべた。

 振り返らずに言った。

「今日の分の薪、まだだろう」

 毛布の中で、男が動いた。

 這い出して、外へ向かう気配。

 扉の前で、一瞬だけ足が止まった。

 こちらを振り返り——何も言わず、外へ出て行った。


 小屋の中に、塩と穀物粉の匂いだけが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ