第7話 外の世界
煙が見えた。
東の尾根を越えた先、谷筋に沿って立ち昇る白い筋。焚き火の煙ではない。もっと薄く、幅広い。馬か驢馬の吐く息が、冷気に白く凝固したもの。
複数の温かい身体が、この山域に入り込んでいる。
スコップの柄を握ったまま、目を細めた。
距離はおよそ半里。この雪の中を進む速度を考えれば、ここに着くのは昼過ぎだ。
身体が動いていた。
小屋に戻り、扉を開ける。
男は土間で水桶の近くにしゃがみ、椀を洗っていた。
拾った日から数えて七日目。この男は、椀を洗い、床を拭き、薪を運ぶことを覚えた。指に巻いた布は汚れて灰色になっているが、まだ巻いている。
男がこちらを見上げた。
掠れた声で何か言おうとしたが、視線が凍った。
こちらの顔に、何かを読み取ったのだろう。
「奥に入れ」
低い声で言った。
男の瞳孔が開く。
恐怖。ではない。もっと複雑な、状況を測ろうとする目。
だが、従った。
椀を置き、這うように奥の壁際へ移動する。寝場所にしている毛布の塊の中に、身を沈めた。
棚の上段から、使い古した鹿革のシートを引き下ろす。
それを男の上に掛けた。
革の色は壁板と同じ茶褐色で、塊の形をしていれば荷物にしか見えない。
「動くな。声を出すな」
毛布の下から、小さく頷く気配がした。
*
マルクスは予定通り昼過ぎに現れた。
荷を積んだ驢馬を一頭引き、毛皮の外套をぐるぐる巻きにした中年の男。
赤い鼻先が、凍結した鼻水で光っている。
「よう、オルガ。生きてたか」
挨拶は毎回同じだ。生きていることを確認するための問いではなく、生きていて当然だという前提の、形式的な発声。
「入るな。そこで話せ」
戸口を塞ぐように立ち、腕を組む。
マルクスは慣れた様子で肩をすくめた。
「相変わらずだな。まあいい。品物を見てくれ」
驢馬の背から荷袋を下ろし、雪の上に広げ始める。
塩の袋。穀物粉。乾燥豆。蝋燭の束。縫い針と糸。
北限の地で手に入りにくいものばかりだ。
マルクスは年に三度、この山域を巡回する。秋の終わり、冬の半ば、春の初め。
冬の半ばの便は、最も品物が少なく、最も値が張る。
視線を品物の上に走らせる。
穀物粉は五日分。塩は二週間分。
——いつもの倍、必要になる。
「塩を二袋。穀物粉も二袋。豆を一袋」
「……二倍か?」
マルクスの眉が上がった。
「腹でも壊したか。食が進まないのを粥で補う算段か」
「黙って包め」
支払いは干し肉と毛皮。先月仕留めた鹿の余剰分だ。
マルクスは品物を選り分けながら、ちらちらとこちらの背後——小屋の方を見ていた。
商人の目。値踏みではなく、情報収集の目。
この男は、北限の地を歩く。集落から集落へ、小屋から小屋へ。
物だけでなく、噂を運ぶ。誰が死に、誰が生き、何が起きたか。
情報は、この辺境では塩と同じ値打ちがある。
「なあ、オルガ」
マルクスが手を止めた。
「下の街道で兵を見た。王都の方から来た連中だ。紋章入りの外套を着てた。この時期にこんな北まで来るのは珍しい」
手が止まりかけた。
止めなかった。
干し肉の束を数える動作を、そのまま続ける。
「それで」
「いや、別に。ただ、珍しいと思ってな。冬の真っ只中に、王都の連中がわざわざ北限に来る用事なんぞ、ろくなもんじゃないだろう」
マルクスの目が、もう一度小屋の方を向いた。
窓。
小さな、手のひら大の窓。
そこから漏れる暖炉の光は、いつもと変わらないはずだ。
だが、マルクスの目は何かを捉えたのか、一瞬だけ留まった。
「病人がいる」
自分でも予想しなかった言葉が、口をついて出た。
マルクスの視線がこちらに戻る。
「病人?」
「冬の初めに熱を出した旅人を、拾った。まだ寝込んでいる」
嘘ではない。
拾ったのは事実だ。寝込んでいるのも、半分は事実だ。
「へえ、お前が人を拾うとはな」
マルクスの口元に笑みが浮かんだ。驚きではなく、面白いものを見た商人の笑み。
「感染するから近づくな。取引が終わったら帰れ」
「はいはい」
品物と対価の交換を終え、マルクスは驢馬の手綱を取り直した。
雪を踏みしめる音が遠ざかっていく。
足を止めた。
振り返った。
小屋の窓の方を、もう一度。
視線が数秒、留まった。
それから、何も言わずに歩き出した。
驢馬の背に積まれた荷が、歩くたびに軋んだ音を立てる。
白い息の筋を引きながら、マルクスの姿は尾根の向こうに消えた。
*
扉を閉めた。
革のシートを剥がすと、男が丸まっていた。
目を開けている。
動くなと言ったから、動かなかった。声を出すなと言ったから、声を出さなかった。
律儀な荷物だ。
買い込んだ品物を棚に並べる。
塩の袋を持ち上げたとき、重さが手に実感を伝えた。
二人分の塩。二人分の穀物粉。
マルクスに量を聞かれた。
理由を説明する必要はなかった。「病人がいる」と言えば済んだ。
だが、品物の量が、数字として残る。
マルクスは覚えている。次に来たとき、「病人はどうなった」と聞くだろう。
その時、何と答えるか。
男が毛布から上半身を出していた。
視線が、オルガの手元——塩と穀物粉の袋——と、オルガの顔を行き来している。
何かを理解しようとしている目だった。
なぜ隠したのか。なぜ病人と嘘をついたのか。
答える気はない。
窓の外を見た。
マルクスが去った方角。
王都の兵。紋章入りの外套。
指輪の紋章。
昨夜の悪夢の断片。
棚の塩を整え終え、暖炉に薪をくべた。
振り返らずに言った。
「今日の分の薪、まだだろう」
毛布の中で、男が動いた。
這い出して、外へ向かう気配。
扉の前で、一瞬だけ足が止まった。
こちらを振り返り——何も言わず、外へ出て行った。
小屋の中に、塩と穀物粉の匂いだけが残った。




