第6話 夜の告白
眠れない夜は、獣脂の蝋燭を灯す。
炎は小さい。暖炉の残り火から移した種火が、獣脂の塊の上で揺れている。光の届く範囲は、手元の半径二尺ほど。それで十分だ。
手入れの行き届いた短刀の刃に、砥石を滑らせる。
シュッ、シュッ。
一定のリズム。角度は二十度。圧は刃の重さだけ。
余計な力を入れれば、刃は鋭くなる代わりに脆くなる。
丁度良い加減というのは、身体が覚えている。頭で考えるものではない。
男は眠っている。
暖炉の近く、いつもの場所。
五日前にそこへ転がした時と、基本的な位置は変わっていない。だが、姿勢が変わった。
初日は胎児のように丸まっていた。両膝を胸に引きつけ、両腕で頭を覆い、なるべく小さくなろうとする防御姿勢。
今は、足が伸びている。
毛布から片足がはみ出し、床板の上に無防備に投げ出されている。
緊張が解けた証拠だ。完全にではない。だが、この場所を「即座に殺される空間」とは認識しなくなった。
「いつ殺されるか分からない空間」程度には格上げされたらしい。
砥石を返す。反対側の面を研ぐ。
シュッ、シュッ。
外は風が唸っている。窓枠の隙間から、細く高い音が漏れてくる。今夜は冷える。
研ぎの途中で、手が止まった。
音が変わった。
風の音ではない。
室内の音だ。
男の呼吸が、乱れていた。
規則的だったリズムが崩れ、浅く速い過呼吸に変わっている。
毛布の中で身体が強張り、足が引きつるように曲がった。
先ほどまで伸びていた足が、再び胎児のポーズに戻る。
寝返りではない。
悪夢だ。
蝋燭の光が、男の顔を照らしていた。
眉間に深い皺が刻まれている。
閉じた目の下で、眼球が忙しなく動いている。
唇が開き、歯が噛み合わさる音がした。
ギリ、と。
歯軋りのような、あるいは何かを噛み殺すような。
「……ちが……」
呻き声だった。
声帯は回復しきっていない。掠れて、途切れる。
だが、言葉の輪郭は聞き取れた。
「ちがう……わたし、は……」
男の身体が痙攣した。
毛布を握りしめた指が白くなり、関節が軋む。
汗が額に浮いている。暖炉の熱とは別の、恐怖から絞り出される水分。
「やって、いない……わたしは……なに、も……」
手を止めた。
砥石を膝の上に置き、男を見る。
蝋燭の炎が揺れ、男の影が壁の上で歪んだ。
否認。
無実の主張。
夢の中で、この男は誰かに弁明している。
何かをやっていないと。
知りたい情報ではなかった。
拾った荷物の来歴など、燃料としての性能には関係がない。
だが、耳は閉じられない。
「紋……しょう……あれ、は……ちち、うえの……」
紋章。
父上。
男の唇が、その二つの単語を吐き出した。
指が、無意識に左手の薬指を探る。
そこには、指輪がある。
拾った日から嵌まっていた、銀色の台座に小さな石がはまった指輪。
金目のものとして、ブーツの留め具と並んで認識していた。
だが、今の寝言と合わせれば、あれは装飾品ではない。
紋章。
家の紋。
貴族の印。
男の身体が、もう一度大きく震えた。
今度は叫び声に近い音が漏れた。
鋭く、短く。喉が裂けるような嗄れた悲鳴。
暖炉の火が揺れた。
男はまだ起きない。
悪夢に閉じ込められている。
身体は暴れようとしているが、消耗しきった筋肉がそれを許さない。
結果として、毛布の中で小さく痙攣するだけだ。
幼い子供が夜泣きしているのに似ている。
いや、もっと切実だ。
大人の身体で子供のように怯え、子供ほどの声すら出せない。
立ち上がった。
砥石と短刀をテーブルに置く。
男の傍に歩み寄る。
しゃがみ込む。
毛布がずれていた。
肩から首が露出し、汗で張り付いた襟元が鎖骨を覆っている。
あばら骨の浮いた胸郭が、不規則に上下している。
毛布の端を掴み、引き上げた。
肩を覆い、顎の下まで引き上げる。
端を身体の下に押し込み、体温が逃げないようにする。
寒さで震えが悪化すれば、悪夢がさらに深くなる。
そうなれば、叫び声で自分が眠れなくなる。
実用的な判断だ。
手を離そうとした。
男の手が、毛布越しにこちらの手首に触れた。
掴んではいない。指が乗っているだけ。
力はない。熱もない。
だが、触れている。
男の顔を見た。
目は閉じたまま。
眉間の皺が、ほんの少しだけ浅くなっていた。
呼吸がわずかに落ち着いている。
体温を感知して、反射的にしがみついたのだろう。
雪の中でブーツを掴んだ時と同じだ。
熱源への、無意識の渇望。
手首に乗った指を、ゆっくりと外した。
一本ずつ。
爪の先まで凍えた、長い指。
布を巻いた指先が、空を掴む。
何も触れない空間を、二度、三度、握っては開く。
毛布の端を、もう一度整えた。
今度はきつめに。
男が動いても崩れないように。
蝋燭のところへ戻る。
砥石を取り、研ぎを再開した。
シュッ、シュッ。
男の呼吸は、徐々に規則的なリズムを取り戻していった。
悪夢の波は去ったらしい。
足が、また毛布の下から伸びた。
紋章。父上。やっていない。
三つの断片が、頭の中に残った。
消せない。
消す必要もない。
燃料の品質に関係なくても、在庫の属性情報として記録しておけばいい。
薬指の指輪。
明日、あの石をよく見てみよう。
彫刻があるなら、何の家紋かわかるかもしれない。
——知ったところで、どうするつもりだ。
その問いにも、答えは出さなかった。
蝋燭の炎が、低く揺れている。
獣脂が減り、芯だけが赤く燃えていた。
もう少しで夜が明ける。




