表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/11

第6話 夜の告白

 眠れない夜は、獣脂の蝋燭を灯す。


 炎は小さい。暖炉の残り火から移した種火が、獣脂の塊の上で揺れている。光の届く範囲は、手元の半径二尺ほど。それで十分だ。

 手入れの行き届いた短刀の刃に、砥石を滑らせる。

 シュッ、シュッ。

 一定のリズム。角度は二十度。圧は刃の重さだけ。

 余計な力を入れれば、刃は鋭くなる代わりに脆くなる。

 丁度良い加減というのは、身体が覚えている。頭で考えるものではない。


 男は眠っている。

 暖炉の近く、いつもの場所。

 五日前にそこへ転がした時と、基本的な位置は変わっていない。だが、姿勢が変わった。

 初日は胎児のように丸まっていた。両膝を胸に引きつけ、両腕で頭を覆い、なるべく小さくなろうとする防御姿勢。

 今は、足が伸びている。

 毛布から片足がはみ出し、床板の上に無防備に投げ出されている。

 緊張が解けた証拠だ。完全にではない。だが、この場所を「即座に殺される空間」とは認識しなくなった。

 「いつ殺されるか分からない空間」程度には格上げされたらしい。


 砥石を返す。反対側の面を研ぐ。

 シュッ、シュッ。

 外は風が唸っている。窓枠の隙間から、細く高い音が漏れてくる。今夜は冷える。


 研ぎの途中で、手が止まった。

 音が変わった。

 風の音ではない。

 室内の音だ。


 男の呼吸が、乱れていた。

 規則的だったリズムが崩れ、浅く速い過呼吸に変わっている。

 毛布の中で身体が強張り、足が引きつるように曲がった。

 先ほどまで伸びていた足が、再び胎児のポーズに戻る。

 寝返りではない。


 悪夢だ。


 蝋燭の光が、男の顔を照らしていた。

 眉間に深い皺が刻まれている。

 閉じた目の下で、眼球が忙しなく動いている。

 唇が開き、歯が噛み合わさる音がした。

 ギリ、と。

 歯軋りのような、あるいは何かを噛み殺すような。


「……ちが……」


 呻き声だった。

 声帯は回復しきっていない。掠れて、途切れる。

 だが、言葉の輪郭は聞き取れた。


「ちがう……わたし、は……」


 男の身体が痙攣した。

 毛布を握りしめた指が白くなり、関節が軋む。

 汗が額に浮いている。暖炉の熱とは別の、恐怖から絞り出される水分。


「やって、いない……わたしは……なに、も……」


 手を止めた。

 砥石を膝の上に置き、男を見る。

 蝋燭の炎が揺れ、男の影が壁の上で歪んだ。


 否認。

 無実の主張。

 夢の中で、この男は誰かに弁明している。

 何かをやっていないと。


 知りたい情報ではなかった。

 拾った荷物の来歴など、燃料としての性能には関係がない。

 だが、耳は閉じられない。


「紋……しょう……あれ、は……ちち、うえの……」


 紋章。

 父上。

 男の唇が、その二つの単語を吐き出した。

 指が、無意識に左手の薬指を探る。


 そこには、指輪がある。

 拾った日から嵌まっていた、銀色の台座に小さな石がはまった指輪。

 金目のものとして、ブーツの留め具と並んで認識していた。

 だが、今の寝言と合わせれば、あれは装飾品ではない。

 紋章。

 家の紋。

 貴族の印。


 男の身体が、もう一度大きく震えた。

 今度は叫び声に近い音が漏れた。

 鋭く、短く。喉が裂けるような嗄れた悲鳴。

 暖炉の火が揺れた。


 男はまだ起きない。

 悪夢に閉じ込められている。

 身体は暴れようとしているが、消耗しきった筋肉がそれを許さない。

 結果として、毛布の中で小さく痙攣するだけだ。

 幼い子供が夜泣きしているのに似ている。

 いや、もっと切実だ。

 大人の身体で子供のように怯え、子供ほどの声すら出せない。


 立ち上がった。

 砥石と短刀をテーブルに置く。

 男の傍に歩み寄る。

 しゃがみ込む。


 毛布がずれていた。

 肩から首が露出し、汗で張り付いた襟元が鎖骨を覆っている。

 あばら骨の浮いた胸郭が、不規則に上下している。


 毛布の端を掴み、引き上げた。

 肩を覆い、顎の下まで引き上げる。

 端を身体の下に押し込み、体温が逃げないようにする。

 寒さで震えが悪化すれば、悪夢がさらに深くなる。

 そうなれば、叫び声で自分が眠れなくなる。

 実用的な判断だ。


 手を離そうとした。

 男の手が、毛布越しにこちらの手首に触れた。

 掴んではいない。指が乗っているだけ。

 力はない。熱もない。

 だが、触れている。


 男の顔を見た。

 目は閉じたまま。

 眉間の皺が、ほんの少しだけ浅くなっていた。

 呼吸がわずかに落ち着いている。

 体温を感知して、反射的にしがみついたのだろう。

 雪の中でブーツを掴んだ時と同じだ。

 熱源への、無意識の渇望。


 手首に乗った指を、ゆっくりと外した。

 一本ずつ。

 爪の先まで凍えた、長い指。

 布を巻いた指先が、空を掴む。

 何も触れない空間を、二度、三度、握っては開く。


 毛布の端を、もう一度整えた。

 今度はきつめに。

 男が動いても崩れないように。


 蝋燭のところへ戻る。

 砥石を取り、研ぎを再開した。

 シュッ、シュッ。


 男の呼吸は、徐々に規則的なリズムを取り戻していった。

 悪夢の波は去ったらしい。

 足が、また毛布の下から伸びた。


 紋章。父上。やっていない。

 三つの断片が、頭の中に残った。

 消せない。

 消す必要もない。

 燃料の品質に関係なくても、在庫の属性情報として記録しておけばいい。


 薬指の指輪。

 明日、あの石をよく見てみよう。

 彫刻があるなら、何の家紋かわかるかもしれない。

 ——知ったところで、どうするつもりだ。


 その問いにも、答えは出さなかった。

 蝋燭の炎が、低く揺れている。

 獣脂が減り、芯だけが赤く燃えていた。

 もう少しで夜が明ける。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ