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「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


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第10話 庭

 夜が明ける前に、床下に潜った。


 小屋の床板は、一部が外せるようになっている。

 建てた時にそう作った。非常用の貯蔵庫として。

 今は使っていない。中には古い毛皮と、錆びた予備の斧頭が転がっているだけだ。

 その空間を、掃除した。

 毛皮を引き出し、埃を払い、新しい藁を敷く。

 予備の毛布を一枚。水筒を一つ。干し肉を三日分。

 人間一人が膝を抱えて隠れるには十分な広さがある。

 床板を戻せば、上から見ても分からない。


 何をしているのか、自分でも分かっていた。

 追い出すための支度ではない。

 隠すための支度だ。

 王都の兵が来たとき——マルクスの口から情報が漏れたとき——あの男を見つけさせないための構造物。


 方程式の解は「追い出す」だったはずだ。

 手は、別の答えを選んだ。

 合理性を裏切った。

 生まれて初めてのことかもしれない。


 *


 朝。

 リュシアンは昨日と同じ姿勢で毛布の中にいた。

 出てくる気配がない。

 食べてもいない。昨夜置いた粥が、椀の中で冷たく固まっている。


 床板の前に立った。

 リュシアンの寝場所から三歩の位置。

 足で床板を蹴り上げる。

 バンッ、と乾いた音がして、板が跳ね上がった。

 床下の空間が露わになる。

 新しい藁。毛布。水筒。干し肉。


 リュシアンが毛布の隙間から目を覗かせた。

 空洞を見ている。

 意味が分からない、という顔だ。


「入ってみろ」


 リュシアンは動かなかった。

 声は聞こえているはずだ。だが、身体が命令を受け付けていない。

 昨日からの長い沈黙が、この男の中の何かを凍結させていた。


 歩み寄る。

 毛布の端を掴み、剥がす。

 丸まったリュシアンの身体が露出した。

 痩せた肩。布を巻いた指。汚れたシャツ。

 あの夜、雪の中から掘り出したときと同じだ。

 ただし、あの時よりは血色がある。呼吸も深い。

 壊れかけの楽器は、弦が三本に増えていた。


 襟首を掴んだ。

 初日と同じように。乱暴に。

 リュシアンの身体が強張る。

 だが、悲鳴は上げなかった。

 初日は恐怖で声が出なかった。

 今日は、信頼とも諦めともつかない何かで、声を出さなかった。


 床下の空間に、押し込む。

 リュシアンの身体が藁の上に落ちた。

 軽い。相変わらず。

 だが、最初の日よりは重い。

 穀物粥と干し肉の汁が、この骨格に幾ばくかの質量を加えた。


 リュシアンが見上げていた。

 床下の闇の中から、暗い色の瞳がこちらを見ている。


「誰かが来たら、ここに入れ。自分で蓋を閉めろ」


 指示。

 簡潔な、行動指針。

 追い出すための言葉ではない。

 残すための手順だ。


 リュシアンの目が見開かれた。

 唇が震えた。

 何かを言おうとして——声が詰まった。

 喉が動く。音にならない。

 感情が声帯を圧迫して、言語を通さないのだ。


 手を伸ばし、床下からリュシアンを引き上げた。

 藁が服についている。払う気はない。

 立たせる。

 リュシアンの足が震えていたが、立った。


 向き合う形になった。

 リュシアンの方がわずかに背が高い。

 だが、存在の重量は比較にならない。

 風が吹けば折れそうな貴公子と、斧で狼を屠る元傭兵。

 その落差が、今この瞬間、意味を持たなくなっていた。


「……オル、ガ」


 名前だった。

 掠れた声で、確かに、名前を呼んだ。

 教えたことはない。

 マルクスが呼んでいたのを聞いていたのだろう。


 手が止まった。

 止まったことに気づき、すぐに動かした。

 リュシアンの肩についた藁を、一本、指で弾く。


「私の庭に勝手に穴を掘るな」


 意味の通らないことを言った。

 穴を掘ったのは自分だ。

 だが、言葉が出るならそれでいい。沈黙よりは。


 リュシアンの顔に、何かが走った。

 笑みではない。泣き顔でもない。

 壊れかけた楽器が、初めてまともな和音を鳴らしたときの、その振動に近い表情。

 見たことのないものだった。


 背を向ける。

 暖炉に薪をくべる。

 冷めた粥を温め直す。

 椀に盛って、木箱の上に置く。


「食え」


 九日前と同じ言葉。

 だが、意味が違っていた。

 あの時は、廃棄物に燃料を投入する行為だった。

 今は——何だろう。

 分からない。

 分からなくていい。


 リュシアンが床下から這い出し、寝場所に戻る途中で、木箱の椀を見つけた。

 温かい粥。

 両手で椀を包み、口元に運ぶ。

 一口。

 肩が落ちた。

 緊張が溶ける音は聞こえない。だが、空気の密度が変わったのは分かった。


 窓の外を見る。

 雪はまだ降っている。

 だが、雲の隙間から薄い光が差し込んでいた。

 春はまだ遠い。

 だが、冬至は過ぎた。日は、少しずつ長くなっている。


 外に出た。

 スコップを手に取る。

 雪かきを始めようとして、足を止めた。


 山の麓。

 谷筋を縫うように伸びる、一本の道。

 その道の上に、何かが見えた。

 雪の白に対して、不自然に暗い点。

 複数。

 動いている。


 目を細める。

 先頭に、旗のようなものが揺れていた。

 色は判別できない。だが、形は分かる。

 紋章旗。


 馬車。

 紋章入りの馬車が、山道を登ってきている。


 スコップを雪に突き立てた。

 小屋の方を振り返る。

 暖炉の煙が、まっすぐに空へ昇っていた。

 その中に、二人分の息遣いがある。


 風が止んでいた。

 嵐の前の、静寂だった。

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