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「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


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第11話 遠い紋章

 スコップを雪に突き立てた柄から、指が離れなかった。


 革手袋の内側で、熱がこもる代わりに、冷えだけが上ってくる。末端の痺れが肘まで届こうとしていた。

 それでも、視線は谷筋に張り付いたままだった。

 雪の白に対して、不自然に暗い点が複数、動いている。目を細め、手を遮光の形に組み直した。西に傾きかけた日の角度で、旗の布がほんの一瞬光ったが、色までは拾えない距離だった。

 先頭の馬車の大きさと、随伴する騎影の数から、おおよその見当だけが立つ。軽装ではなく護衛も複数ついている以上、主は自ら馬車に乗る身分の人間だ。

 山道の曲がり角で、行列が一度姿を消した。再び現れるまでの時間を数える。傾斜のきつい場所を越えているせいで登る速度は遅いが、止まる気配もなかった。


 スコップを雪に突き立てたまま、背後を振り返った。

 小屋の煙突から、薄い煙がまっすぐに空へ昇っている。

 風がない。

 煙は、谷筋からも見える。


 小屋に戻った。

 戸を閉める音が、いつもより低く響いた気がした。


 リュシアンは、さっき置いた粥の椀を両手で包んだまま、まだ離せないでいた。指に巻かれた布が、しっとりと湿っている。茶碗の温もりが骨にまで沁みているのだろう。


「火を落とす」


 言葉を選ぶ時間が惜しい。選ばずに口にした。

 暖炉に歩み寄り、燃え盛る薪を一本、火かき棒で外へ引き出した。

 残りの薪を熾火の灰の下へ埋めていく。

 炎は小さくなり、やがて煙の柱が途切れた。熾火だけが残る。

 煙突から昇る白い柱が、途切れたまま戻ってこない。


 リュシアンが粥の椀を下ろしていた。

 指に巻いた布の上に、冷めた粥の滴が一粒、落ちている。

 気づいていない。

 椀を取り上げ、木箱の上に戻す。


 床板の前に立った。

 昨日、足で蹴り上げた場所だ。中の空間は、昨夜整えたまま手を入れていない。藁、毛布、水筒、干し肉、いずれも昨夜の配置を保っていた。

 水筒を傾けて水位を確かめると、減っていない。干し肉の束は三日分あり、一人で一日半もつ量で、二人にはぎりぎりだった。

 毛布の皺を、手のひらで押し伸ばした。


 そのあいだ、リュシアンは立ち上がろうとして、床に手をついたまま動かなくなっていた。脚が震えている。立てないのではなく、立つべきか決めかねているのだ。


「来い」


 命令ではなく、呼んでいた。気づいてから声の抑揚を確かめ直し、命令のつもりだった、と自分に言い聞かせる。


 リュシアンは、四つん這いで近づいてきた。床板を跨ぐとき、中の空間を見下ろす。

 昨日と同じ光景だ。ただし、床板を覗き込む横顔は昨日と違う。昨日は意味の分からない顔をしていたが、今日は、意味を拾い始めた顔だった。


 戸口脇の、胸の高さの小窓。壁に板を打ちつける前に残した、最小の隙間。

 そこに身を寄せた。

 肩越しに振り返り、リュシアンに一歩分の空間を空ける。

 来い、とは二度言わない。

 リュシアンは数秒動かず、それから、静かに横へ並んだ。


 肩の高さが違う。わずかに相手の方が背が高い。

 そのぶん、相手の吐息が耳の上で鳴った。浅く、速い。


 小窓の外。

 谷筋。

 日が傾いて、雪面が青く沈み始めていた。

 それでも、先刻よりは行列の輪郭がはっきり見えた。

 距離が近づいたからだ。


 旗の地色は濃い赤、刺繍は金糸。三日月を咥えた鳥の意匠の上に、三本の縦線が並んでいる。王家の系譜を示す標だ。


 王家直系ではない。王家の血筋を認められた分家の一つ。

 分家は複数ある。地色と意匠の組み合わせで、家名まで追える者もいるだろう。

 傭兵時代、主筋の家紋を覚えておくのは仕事の基本だった。

 分家までとなると、覚える気になれば覚えられる。ただし、北限で籠もり始めて七年、覚え直す必要はなかった。

 赤と金の組み合わせに、まるで心当たりがないわけではない。だが、断定はできない。

 できない、という結論だけ残しておくのが安全だ。


 隣で、リュシアンの呼吸が止まっていた。


 視線を相手に向けはしない。代わりに、相手の手元を視野の端で捉える。

 左手が、胸元に引き上げられていた。痩せた薬指に嵌まったままの、銀色の小さな輪。それを、右手の指で布越しに包み、握り込んでいた。


 気づかないふりをした。気づいたのは事実だが、言葉にする必要はない。沈黙を選ぶ権利は、相手にもある。


 一歩、身体をずらした。

 自分の肩が、相手の視界の一部を塞ぐ形になる。

 谷筋の旗が、半分だけ見えなくなる。

 それでいい。

 全部は、見せなくていい。


「中に入っていろ」


 言ってから、自分の言葉の不器用さに気づいた。

 中に、はどこにかからない。小屋の中か、床下の中か、そのどちらでもない、曖昧な場所を指している。

 言い直さなかった。


 リュシアンは動かず、動かないことで答えた。半歩だけ下がったが、小窓から完全に離れはしない。


 それでいいことにした。


 床板の前に戻り、もう一度、中の物を確かめた。

 水筒の口の栓、毛布の敷き方、干し肉の束を紐でまとめ直して藁の下に隠す。

 リュシアンが背後に立っていた。見ている気配が肌に届く。

 作業の手元を、何かを学ぶ目で追っているのだ。


 終えた。床板を戻し、元通りに踏みつける。板の隙間から漏れる光は、もうない。


 窓の外は、夜に変わりつつあった。

 雪面の青が、藍に近づいていく。

 谷筋の行列は、さっきの曲がり角の向こうで止まった。

 止まったというより、止められた、というべきかもしれない。登りきる前に、夜営の支度を始めた気配があった。

 馬の群れが寄り集まる陰。かがり火が一つ、ふたつと灯っていく。

 旗は、風のない闇に垂れ下がっていた。


 暖炉の熾火に薪を足さず、代わりに、壁の斧に手を掛けた。握り直すための確認であって、取り外すためではない。

 外す日はまだ来ていないし、来ない方がいい。そう願っている自分が、昨日より少しだけ、計算の外に踏み出していた。


 リュシアンが、毛布を肩に掛けて木箱の横に座っていた。

 火の消えた椀が、手の近くに戻されている。

 震えは、収まっていた。


「あれを知っているか」


 問いは、窓の外の方角へ投げた。リュシアンの顔を見ない。答えを強いるつもりはない——聞いておくだけだ。


 答えはなく、沈黙がしばらく続いた。熾火の中で、薪の芯が、ぱちりと一つ鳴った。


 リュシアンの両手が、胸元で重なった。左手の薬指にある銀の輪を、右手でしっかりと包み込む。そのまま、心臓の位置に押し当てた。


 言葉ではない返事だった。

 だが、返事だった。


 問いは繰り返さなかった。

 十分だ。


 ふたたび、窓の外を見た。

 かがり火に照らされて、旗の布地が微かに動いた。風ではなく、薪の上昇気流だろう。その上から、細かい粉雪が降り始めていた。

 谷筋の旗の上に、白が積もり始めていく。

 赤と金の意匠が、少しずつ薄くなる。

 見えなくなる前に、もう一度、形を目に焼き付けた。


 鳥と、三本の縦線。

 今夜のうちに、覚え直しておく。


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