第5話 使役
薪が倒れた。
三度目だ。
腕に抱えた薪の束が崩れ、地面に散らばる。乾いた木材同士がぶつかるカラカラという音が、雪に吸い込まれて消えた。
男が膝をつく。
散乱した薪を、白い指で一本ずつ拾い集めている。
その手は震えていた。寒さのせいではない。筋力が足りないのだ。一本の薪は、大人の腕程度の太さと重さしかないが、この男にとっては丸太と変わらないらしい。
眺めていた。
小屋の軒下に座り、革手袋の繕いをしながら、視界の端で。
雪かきの途中、男が毛布から這い出してきた。
きっかけは知らない。
気づいたときには、男は土間の掃除をしていた。布巾で床を拭く要領はすでに覚えている。昨日の血拭きが訓練になったのだろう。
その動きが、薪置き場の方へ移った。
暖炉の薪が減っていることに気づいたらしい。外の薪棚から中の薪置き場へ運ぶ——ただそれだけの単純作業。
止めはしなかった。
動く気があるなら、動かせばいい。壊れて使えなくなっても、元より使えない部品だ。損失はない。
四度目。
今度は二本だけ抱えて歩き出した。
腕の中で薪が安定しない。滑る。前が見えない。
だが、落とさなかった。
小屋の入り口まで辿り着き、土間を横切り、薪置き場の前に膝をつく。
二本の薪を、既存の山の上に置こうとして——腕が震え、一本が転がり落ちた。
残りの一本は、辛うじて山の上に留まった。
男が振り返った。
こちらを見た。
何かを確認するように。
叱責を予期しているのか、あるいは、承認を求めているのか。
どちらにも応じない。
革手袋の縫い目に針を通し、糸を引く。
男から視線を外さなかったが、表情は変えなかった。
男は、もう一度外へ向かった。
*
日が傾き始める頃には、薪置き場の山が朝より五本分だけ高くなっていた。
五本。
一日の消費量には到底足りない。
だが、昨日まではゼロだった。
数字は増えた。
男は土間に座り込んでいた。
壁にもたれ、膝を立て、両腕を膝の上に投げ出している。
指が赤く腫れていた。凍傷ではない。摩擦と圧迫で毛細血管が切れた痕。
薪の樹皮が、素手の指を痛めつけたのだ。
手袋を渡すべきだったか。
いや。自分の手袋は一組しかない。
ならば、手袋を作るか。
——余分な革はない。
ならば、古い手袋の中敷きを剥がして布を巻くか。
思考が、気づけば男の手の保護に割かれていた。
道具を長持ちさせるのと同じ理屈だ。消耗を抑えれば、稼働期間が延びる。
それだけの話だ。
立ち上がり、棚の上段に放り込んであった古布を掴む。
干し肉を包んでいた、脂染みのある麻の端切れ。
男の前に放った。
「巻け」
短い一言。
男が顔を上げる。
布と、こちらの顔を交互に見て、それから、自分の赤くなった指先を見下ろした。
理解するのに三拍かかった。
布を拾い上げ、不器用に指に巻き始める。巻き方が下手だ。包帯を巻いたことがないのだろう。
見ていられない——のではない。効率が悪いだけだ。
しゃがみ込み、男の手を取った。
抵抗は、なかった。
以前のような硬直もない。
差し出された手は、相変わらず氷のように冷たかったが、指先だけはわずかに温かい。血が通い始めている証拠だ。
布をきつく、だが血流を止めない程度に巻く。
関節の曲がりに合わせて折り返し、端を挟み込む。
十秒で終わる作業。
手を離す。
男が自分の手を見下ろした。
不格好な白い布が、細い指を覆っている。
その顔に浮かんだ表情を、言葉にするのは難しかった。
驚きでも、感謝でも、安堵でもない。
もっと奥にある、名前のつけられない何か。
壊れた物に、誰かが補修の手を入れた。
その事実そのものに対する、静かな困惑。
立ち上がる。
背を向ける。
暖炉の前に戻り、鍋に干し肉と雪解け水を放り込む。
今日の夕食は汁物だ。
干し肉を崩して煮込めば、塊のまま齧るよりも栄養の吸収が早い。
この男の顎では、まだ硬い肉を噛み砕けない。汁に溶かした方が効率的だ。
——効率の問題だ。
鍋の中で干し肉が煮崩れていく。
湯気が立ち上り、塩と獣脂の匂いが部屋に広がる。
その匂いに誘われたのか、男が土間からゆっくりと這い寄ってきた。
暖炉の近く、いつもの位置。
毛布を引きずりながら。
椀に汁をすくい、自分の分を飲む。
煮崩れた肉の繊維が、舌の上でほどけた。
もう一杯。
三杯目で、手が止まった。
柄杓を鍋に戻す。
もう一つの椀に汁をすくった。
肉の欠片が多い方を。
男の前に置く。
男が椀に手を伸ばし、両手で包むように持ち上げた。
陶器の熱が、布を巻いた指を通して伝わったのだろう。
男の目が、わずかに細くなった。
猫が日向を見つけたときのような、反射的な目の動き。
汁を啜る音が、静かな部屋に響いた。
一口ごとに、男の肩から力が抜けていく。
ここに来て三日目。
初めて、男の身体が暖炉の前でほどけるのを見た。
緊張の糸が切れたのではない。
糸の一本が、ほんの少しだけ緩んだ。
肉の量を増やしたことに、気づかれただろうか。
気づかれていないなら、それでいい。
気づかれていても、それでいい。
食料の配分は、管理者の裁量だ。
窓の外では、雪が止んでいた。
雲の切れ間から、星が一つ、二つ、覗いている。
明日は晴れるかもしれない。
晴れれば、沢まで洗濯に行ける。
男の服を、いい加減洗わなければならない。
脱がせたときに引き千切りかけた上着は、縫い直す必要がある。
——いつから、あの男の衣服の手入れが、自分の作業計画に組み込まれたのだろう。
その問いは、浮かんだ瞬間に押し潰した。
鍋の残りに蓋をして、暖炉の火を調整する。
薪を一本追加。
今夜の分は、男が運んだ五本のうちの一本だ。
使えないわけではなかった。




