表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/11

第5話 使役

 薪が倒れた。


 三度目だ。

 腕に抱えた薪の束が崩れ、地面に散らばる。乾いた木材同士がぶつかるカラカラという音が、雪に吸い込まれて消えた。

 男が膝をつく。

 散乱した薪を、白い指で一本ずつ拾い集めている。

 その手は震えていた。寒さのせいではない。筋力が足りないのだ。一本の薪は、大人の腕程度の太さと重さしかないが、この男にとっては丸太と変わらないらしい。


 眺めていた。

 小屋の軒下に座り、革手袋の繕いをしながら、視界の端で。

 雪かきの途中、男が毛布から這い出してきた。

 きっかけは知らない。

 気づいたときには、男は土間の掃除をしていた。布巾で床を拭く要領はすでに覚えている。昨日の血拭きが訓練になったのだろう。

 その動きが、薪置き場の方へ移った。

 暖炉の薪が減っていることに気づいたらしい。外の薪棚から中の薪置き場へ運ぶ——ただそれだけの単純作業。

 止めはしなかった。

 動く気があるなら、動かせばいい。壊れて使えなくなっても、元より使えない部品だ。損失はない。


 四度目。

 今度は二本だけ抱えて歩き出した。

 腕の中で薪が安定しない。滑る。前が見えない。

 だが、落とさなかった。

 小屋の入り口まで辿り着き、土間を横切り、薪置き場の前に膝をつく。

 二本の薪を、既存の山の上に置こうとして——腕が震え、一本が転がり落ちた。

 残りの一本は、辛うじて山の上に留まった。


 男が振り返った。

 こちらを見た。

 何かを確認するように。

 叱責を予期しているのか、あるいは、承認を求めているのか。

 どちらにも応じない。

 革手袋の縫い目に針を通し、糸を引く。

 男から視線を外さなかったが、表情は変えなかった。


 男は、もう一度外へ向かった。


 *


 日が傾き始める頃には、薪置き場の山が朝より五本分だけ高くなっていた。

 五本。

 一日の消費量には到底足りない。

 だが、昨日まではゼロだった。

 数字は増えた。


 男は土間に座り込んでいた。

 壁にもたれ、膝を立て、両腕を膝の上に投げ出している。

 指が赤く腫れていた。凍傷ではない。摩擦と圧迫で毛細血管が切れた痕。

 薪の樹皮が、素手の指を痛めつけたのだ。

 手袋を渡すべきだったか。

 いや。自分の手袋は一組しかない。

 ならば、手袋を作るか。

 ——余分な革はない。

 ならば、古い手袋の中敷きを剥がして布を巻くか。

 思考が、気づけば男の手の保護に割かれていた。

 道具を長持ちさせるのと同じ理屈だ。消耗を抑えれば、稼働期間が延びる。

 それだけの話だ。


 立ち上がり、棚の上段に放り込んであった古布を掴む。

 干し肉を包んでいた、脂染みのある麻の端切れ。

 男の前に放った。

 「巻け」

 短い一言。

 男が顔を上げる。

 布と、こちらの顔を交互に見て、それから、自分の赤くなった指先を見下ろした。

 理解するのに三拍かかった。

 布を拾い上げ、不器用に指に巻き始める。巻き方が下手だ。包帯を巻いたことがないのだろう。

 見ていられない——のではない。効率が悪いだけだ。

 しゃがみ込み、男の手を取った。

 抵抗は、なかった。

 以前のような硬直もない。

 差し出された手は、相変わらず氷のように冷たかったが、指先だけはわずかに温かい。血が通い始めている証拠だ。

 布をきつく、だが血流を止めない程度に巻く。

 関節の曲がりに合わせて折り返し、端を挟み込む。

 十秒で終わる作業。

 手を離す。

 男が自分の手を見下ろした。

 不格好な白い布が、細い指を覆っている。

 その顔に浮かんだ表情を、言葉にするのは難しかった。

 驚きでも、感謝でも、安堵でもない。

 もっと奥にある、名前のつけられない何か。

 壊れた物に、誰かが補修の手を入れた。

 その事実そのものに対する、静かな困惑。


 立ち上がる。

 背を向ける。

 暖炉の前に戻り、鍋に干し肉と雪解け水を放り込む。

 今日の夕食は汁物だ。

 干し肉を崩して煮込めば、塊のまま齧るよりも栄養の吸収が早い。

 この男の顎では、まだ硬い肉を噛み砕けない。汁に溶かした方が効率的だ。

 ——効率の問題だ。


 鍋の中で干し肉が煮崩れていく。

 湯気が立ち上り、塩と獣脂の匂いが部屋に広がる。

 その匂いに誘われたのか、男が土間からゆっくりと這い寄ってきた。

 暖炉の近く、いつもの位置。

 毛布を引きずりながら。


 椀に汁をすくい、自分の分を飲む。

 煮崩れた肉の繊維が、舌の上でほどけた。

 もう一杯。

 三杯目で、手が止まった。

 柄杓を鍋に戻す。


 もう一つの椀に汁をすくった。

 肉の欠片が多い方を。

 男の前に置く。


 男が椀に手を伸ばし、両手で包むように持ち上げた。

 陶器の熱が、布を巻いた指を通して伝わったのだろう。

 男の目が、わずかに細くなった。

 猫が日向を見つけたときのような、反射的な目の動き。


 汁を啜る音が、静かな部屋に響いた。

 一口ごとに、男の肩から力が抜けていく。

 ここに来て三日目。

 初めて、男の身体が暖炉の前でほどけるのを見た。

 緊張の糸が切れたのではない。

 糸の一本が、ほんの少しだけ緩んだ。


 肉の量を増やしたことに、気づかれただろうか。

 気づかれていないなら、それでいい。

 気づかれていても、それでいい。

 食料の配分は、管理者の裁量だ。


 窓の外では、雪が止んでいた。

 雲の切れ間から、星が一つ、二つ、覗いている。

 明日は晴れるかもしれない。

 晴れれば、沢まで洗濯に行ける。

 男の服を、いい加減洗わなければならない。

 脱がせたときに引き千切りかけた上着は、縫い直す必要がある。


 ——いつから、あの男の衣服の手入れが、自分の作業計画に組み込まれたのだろう。


 その問いは、浮かんだ瞬間に押し潰した。

 鍋の残りに蓋をして、暖炉の火を調整する。

 薪を一本追加。

 今夜の分は、男が運んだ五本のうちの一本だ。

 使えないわけではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ