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「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


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第4話 最初の声

 目が覚めたのは、習慣の力だった。


 窓の外はまだ暗い。だが、東の稜線のあたりがわずかに鉄灰色へ変わり始めている。日の出まで、あと一刻。

 毛布を剥ぎ、寝台から足を下ろす。足裏が床板に触れた瞬間、関節に染み入るような冷えが走った。

 革のズボンを穿き、毛皮の上着を羽織る。金属のバックルが素肌に触れて、一瞬だけ息が止まる。

 暖炉の残り火を確認する。

 種火は生きていた。灰の下で、小さな赤が明滅している。

 新しい薪を二本組み、その上に細い枝を渡す。吹きかけると、枝の先端から炎が立ち上がった。

 部屋の温度が、一段階だけ上がる。


 男を見た。


 暖炉の近く、壁際に置いた毛布の塊。

 昨晩の位置と、ほとんど変わっていない。

 床の血痕は拭き取られていた。完全とは言えない。布巾でこすった跡が、板の木目に沿って茶色い筋を残している。

 だが、まあ、許容範囲だ。

 男は毛布に包まったまま、膝を抱えて丸くなっている。

 呼吸音は安定していた。浅く規則的な、生きている人間の音。

 昨晩の狼の一件のあと、男は床を拭き終えるとそのまま毛布の中に潜り込み、二度と出てこなかった。

 恐怖で眠れなかったのか、あるいは疲弊で泥のように眠ったのか。

 どちらでもいい。

 動かないなら、邪魔にはならない。


 *


 戸口の扉を開けると、冷気が壁のように押し寄せた。

 昨日の吹雪はやんでいたが、夜間の冷え込みで積雪の表面が硬い氷の殻に変わっている。

 ブーツの底が、その殻を踏み砕く音を立てた。

 バリッ、バリッ。

 規則的な足音が、静寂の中に刻まれていく。


 井戸ではない。この土地に井戸は掘れない。永久凍土が、人間の道具を跳ね返す。

 代わりに使うのは、沢の水だ。

 小屋の裏手、岩場を五十歩ほど下った場所に、細い水流がある。冬でも凍り切らない地下水脈が、岩の隙間から湧き出ている。

 桶を一つ。

 氷に覆われた岩肌に足を置き、慎重に下る。

 手が悴む前に桶を満たし、両手で抱えて戻る。桶の水面が揺れ、こぼれた分が手甲で凍りつく。

 これも日課だ。

 考える必要のない労働。身体だけが動き、頭は別のことを処理できる。

 薪の残量。干し肉の在庫。次の吹雪の予測。

 そして、あの男の処遇。


 荷物は増えた。

 消費する食料、消費する薪、消費する水。

 対価として得られるものは、現時点では、ない。

 だが。

 昨夜、床を拭いた。

 命じられて動いた。

 指示を理解し、実行する能力がある。

 つまり、使える可能性はある。


 桶を土間に置く。

 中に入ると、暖炉の熱で室内が暖まりかけていた。

 男はまだ毛布の中だ。

 だが、丸まった姿勢がわずかに変わっている。

 顔が毛布の端から覗いていた。目は閉じているが、呼吸のリズムが先ほどより浅い。

 起きている。

 起きているくせに、寝たふりをしている。

 こちらが帰ってくるのを、息を殺して待っていた。

 獣が天敵の気配を窺うように。


 構わない。

 柄杓で桶の水をすくい、陶器の椀に移す。

 自分の分を一杯、飲む。

 冷たい水が喉を通り、胃の底に落ちる。

 身体の芯が、内側から冷却される感覚。

 もう一杯。


 鍋を暖炉のかけ金に掛ける。水を入れ、乾燥した薬草を一掴み放り込む。

 薬草湯だ。

 風邪の予防というよりは、習慣。苦い汁が内臓を温め、朝の動作を一段滑らかにする。


 薬草の匂いが広がると、毛布の中で微かな動きがあった。

 鼻先が動いている。匂いに反応したのか。

 意識があるなら、水を飲ませるべきだろう。脱水状態の人間は、凍傷の回復が遅れる。回復が遅れれば、使い物になるまでの日数が増える。

 効率の問題だ。


 椀に水を汲み、男の近くに置く。

 手の届く位置。だが、手渡しはしない。

 受け取りたければ、自分で手を伸ばせ。


 毛布の端を蹴る。軽く。犬を起こすような、爪先の一突き。

 男が身を竦めた。

 目が開く。

 暗い色の瞳が、焦点を結ぶまでに数秒かかった。

 次にこちらの顔を見て、次に、目の前の椀を見た。

 椀の中の透明な水。

 男の唇が開きかけた。閉じた。もう一度、開いた。

 喉仏が上下する。

 何かを飲み込もうとしている。だが、口腔に唾液がないのだろう。渇いた粘膜同士がこすれる、不快な音。


 そして。


「……み、ず」


 それは声と呼べるものではなかった。

 息が声帯の残骸を擦り、かろうじて母音の形を成しただけの、掠れた振動。

 風が窓の隙間を通る音の方が、まだ明瞭だったかもしれない。

 だが、それは確かに、言葉だった。

 意図を持って発せられた、人間の言語。


 手が止まった。

 薬草湯をかき混ぜていた手が、一瞬だけ動きを止めた。

 自覚はない。

 反射的な停止。

 音が、予想外の場所から聞こえたときの、動物的な警戒反応。

 一拍。

 二拍。

 三拍目には、何事もなかったように手を動かしていた。


 男の方を見もしない。

 視線は鍋の水面に落ちたまま、薬草の葉が渦を描くのを眺めている。

 だが、耳は拾っていた。

 毛布の布擦れ。男が身体を起こす音。椀に手が伸びる、衣擦れの微かな摩擦。

 陶器の縁に唇が触れる音。

 水を含む音。小さく、慎重に。

 一口。

 咳き込むかと思ったが、咳は出なかった。

 二口目。三口目。

 飲み終えた椀が、床に置かれる音。

 乾いた陶器と木の床板がぶつかる、コトンという小さな音。


 静寂が戻った。


 男はまた毛布の中に潜り込んだのだろう。気配が低くなる。

 暖炉の火が、パチリと爆ぜた。


 水をくれとは言わなかった。

 「水」とだけ言った。

 要求ではなく、確認。あるいは、名付け。

 目の前にある透明な液体に、音を与えただけ。

 それでも、あの身体から、意味を持った振動が出力されたのは、これが初めてだ。

 壊れた楽器が、弦を一本だけ復元したような。

 まだ曲は弾けない。だが、音は出る。


 鍋の湯が沸いた。

 薬草湯を椀に注ぎ、自分の分を飲む。

 苦い。

 それでいい。

 朝が始まった。


 外に出る支度をしながら、視界の端で男の位置を確認する。

 空になった椀が、毛布の外に転がっていた。

 椀を拾い上げ、桶の水で濯ぐ。

 水を足して、もう一度、男の手の届く位置に置いた。

 今度は一言も発さない。

 男も、何も言わなかった。


 扉を開け、白い冷気の中へ踏み出す。

 スコップを手に取り、昨夜からの雪を掘り返す作業に入った。


 ざく、ざく。


 単調なリズムだけが、朝の空気を満たしていく。

 その音に紛れて、小屋の中から何かが聞こえた気がした。

 二文字の、掠れた音。

 聞き間違いかもしれない。

 風の音かもしれない。

 振り返らなかった。

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