狐の鳴いた日・2
目が有った。
そして、絵の中の目と、目が合った。
真っ黒に塗りつぶされていたカンバスに、黒一色だったはずのそれに、大きな目玉が浮かんでいた。
『そこか』
地獄の底から響いてくるようなひび割れた声が、絵から聞こえてきた。
全身が総毛立つ。
出てきてはいけないものが、這い出そうとしている。
黒い絵の具が、血のように垂れ始めている。
この世のものではない物理法則に、目をつけられた。
空気に苦みを感じる。
酸素がねばつく。
闇がまぶしくて、目を開けていられない。
足元が消えてなくなって、空に支えられているような、あべこべの感覚。
何とかしないとと思っても、体が動かない。
魂だけが抜け出して走り出したようで、感覚と肉体の動きが一致しない。
なんだこれ。なんなんだこれ!
ランプすら金縛りにあったように動けないでいる。
「下がれーーーーーーーーっ!!!!」
そこに響いてきたのは、聞き覚えのある声だった。
突風と共に、シロクマのように大きな狐が、空を駆けて来ると、絵画に向かって大きく口を開いた。
がぎっ
鈍い音がして、狐の牙が砕けて飛んだ。
それでも、その狐は噛みつくのを止めず、額縁を口の力でへし折った。
「安康狐!!」
「下がっておれと言った! こやつ、想像以上であった。人界に出て、たかだか数十年、まさかここまで完成しておるとは……地獄が漏れ出している!!」
安康狐はいつもの泰然自若とした様子など微塵もなく、焦燥を隠さず叫んだ。
『くふふ……哂わせる。千年生きただけの狐が、九千年死に続けた余に敵うと思っておるか。わかるぞ……おぬし、肉体は既に死にかけ。人界では生きてゆけぬのであろ? くふふ』
「黙れ!! 貴様は儂が命に代えても始末する!!」
噛まれた額縁から、黒い絵の具が呪いそのものになってあふれ出し、安康狐の艶やかな白い毛並みを侵していく。
「大丈夫なの!?」
「大丈夫なわけがあるか阿呆!! あとのことは任せた! 座王院コレクションを集めて儂の社に放り込んでおけ! 主がおらなんでも、並みのものはどうにでもなる。こやつ以外は!」
安康狐はまくしたてるように言うと、空をにらんだ。
すると、空に鳥居が次々と現れ、天へのきざはしになっていく。
夜中にも関わらず、その赤ははっきりと目に飛び込んできた。
「何をするつもり!」
「こやつは地獄。天にぶつけて消し去る!」
「そんなことをして貴方はどうなるの!?」
「文脈を読め愚か者が!! 儂は死ぬであろう!! さらばだ!!!」
「ちょっ……待っ……」
こちらの言葉などおかまいなしに、安康狐は駆けだした。
その背に大声をかけたのは、ランプだった。
「待て!! 安康狐! 貴様は父の……」
「小僧! 貴様の正体おおよそ予想がつく!! じゃが時間がない! 勝手に想像しろ! そして、願わくはその小娘の使命を助けてやれ!!」
神様のたぐいはこちらの言葉なんかまともに耳を貸さず、そのまま空に突っ込んだ。
コーン、と狐が鳴く声がした。
……ように聞こえた。
……と思う。
そして、空に蓋があったかのように、美しい白が空にぶつかると、轟音を響かせて弾け飛んだ。
のちに、隕石が空中で爆発したと思われると報道があったほどの衝撃は、周囲の窓ガラス全てを微塵に打ち砕き、夜の静寂を引き裂いた。
そしてそれきり、真紅の鳥居や黒い絵や、そして白い狐も消えてなくなった。
まるで最初から何もなかったかのように。
残された私とランプは、一度顔を見合わせたが、どちらともなく、その場を後にした。
埋めがたい欠落感とともに。




