狐の鳴いた日・1
鋭く吊り上がった月が、麻座利市を冷たい光で照らしている。
地方都市にあっても歓楽街はネオンの光をちらつかせていて、90年代からタイムスリップしてきたようなその上を、二つの影が駆けていた。
前を走るのは赤と黒の装束をまとった男、ランプ。
追いかけるのはもちろん私、アルセリオン。
「それを渡して!」
「他のコレクションはともかく、これだけは渡せませんね」
ランプが大事そうに抱えているのは、「地獄の窓」と呼ばれる油絵だ。
銀行の金庫に眠っていたものを、私と彼で競い合うように盗みに入り、結果、彼がかすめ取る形で持ち逃げしていた。
安康狐が「あれだけはなんとしても手に入れよ。あれは災厄級の代物だ」といつになく真剣な口調で言っていたものだけあって、霊感のない私でもはっきりわかる。
あれはヤバい。
一見、黒い絵具が塗りたくられただけのカンバスにしか見えない。
でも、違う。
あれは空間に“絵の具で開けられた穴” だ。
絵を出口に、魔界から怪物が這い出して来るようなおぞましい感覚。
どういう経緯かはわからないけど、あれは、地獄に繋がっている。
あれがあるだけで不可解な現象が続発し、死人が多発するというけど、それだけで済んでいるのが幸運だってはっきり言える。
この世にあっていいものじゃない。
「渡さないって言うなら、痛い目を見ても後悔しないで」
「ふふ、怖い怖い。でもね、僕もこれだけは渡せないんですよ。僕は誰も信用しない。こんなもの僕が管理してないと不安で仕方ないのでね」
ランプは左手でトランプをまき散らす。
それをダジャレかなんて追求する余裕はない。
トランプはくるくる回転しながら、カッターとなって飛んでくる。
屋根の上を駆けながら、それをかわすのは神経を使う。
ちょっとでも油断すれば電線に引っかかって地面へ真っ逆さまだ。
アルセリオンはあくまで怪盗。
身体能力の向上はあれど、攻撃能力は無い。
あー、もう!
カディンギルならトランプなんか切り裂けるのに。
とにかく、かわすことに集中して距離を詰めていく。
「……参りましたね。僕も暴力は好きじゃないのですが」
私を引き離せないことを悟ったランプは、脚を止めた。
絵を左手に持ち替え、右手にステッキを構えるランプ。
潰れた映画館の屋根の上、私とランプが向かい合う。
「……ええ、ええ。認めましょう。僕はね、あなたを評価してるんだアルセリオン。いくつかのコレクションの所有をあなただけには許しているようにね」
「貴方に許されるようなことはなにもないわ。あれは幽玄にあるべきものだから」
「あの狐が全て真実を言っているとでも? あれが世を覆す魔王のたぐいではないと、なぜ言えるんです?」
「それは……」
「あなたは、自分に力をくれたその狐を信じたいだけなのでは?」
「……!」
心臓を撃ち抜かれたような、衝撃。
図星、だった。
「ていよく利用されているとは考えなかったんですか? それとも自分がアニメのヒロインのように選ばれた人間だとでも?」
言葉が出てこない。
私は、安康狐のことを、あまりにも知らない。
知らな過ぎた。
それは彼がどの程度知っているかとは、関係ない。
私が知ろうとしなかったということの裏返しだから。
「……だからね、やっぱりあなたには渡せないんですよ」
突きつけられたステッキの頭は、丸かった。
だけど、どんな剣の切っ先より鋭く感じた。
「……それでも」
私は言うしかない。
信念を。
「私はそれを回収する。そしてもし、それを安康狐が悪用した時は……私があいつを斬る!!」
「ほう!」
ランプの仮面の向こうに笑顔が見えたような気がした。
「じゃあ、やっぱりもうあとは戦うしかないですね。僕らの信条の問題だから」
ランプは、絵を映画館の看板の裏に立てかけた。
そして両手を広げ、迎え撃つ意志をあらわにしてきた。
「……そうかもね」
私は拳を握り締め、構えを取る。
とても怪盗だとは思えない泥臭さ。
マジキュアで学んだ私の格闘スタイル。
どちらともなく走り出し、決して長くない屋根の上を駆け、交錯する。
私の正拳突きは、ランプのステッキを跳ねのけ、そのまま彼の胴体に突き刺さっていた。
「がっ……」
ランプの肺が、一気に空気を吐き出す。
彼はそれでも強引に体を独楽のように回転させて裏拳を放った。
「悪いけど……遅い!」
私も流れに乗って回転、伸びきった彼の腕をつかんで引き倒した。
そのまま肩に足を乗せ、押さえつける。
時間にして一分にも満たない攻防で、あっさり勝負はついた。
降参ということなのか、彼の体から力が抜けていく。
「うーん……やっぱり、慣れないことはするものじゃないですね……」
「……貴方、全然強くないじゃない。なんで戦ったの?」
「確かめたかったから……ですかね。あなたの本気を」
わかるような、わからないような。
でも、だとすれば彼は考えていたのだ。
悩んでいたのだ。
だけど、私は違う。
「私の負けね……いいわ。あの絵は持って行って」
私が手を放すと、心底意外そうな様子でランプは起き上がった。
「どういう風の吹き回しです?」
「……私は貴方ほど、真剣に考えてなかったって、思い知らされた。だから、まだ私はそれを回収する資格はないと思っただけ」
「そうでしょうか? もし安康狐が悪なら斬ると言ったあなたの信念は、ホンモノに見えましたが」
「そこだけね。……きっとそこだけなの。だから、貴方が悪用するなら、貴方も斬る」
「……まぁいいでしょう。ではアレは責任もって僕が預かります」
ほこりをはたくと、ランプは絵に向かい――
その背が固まった。
「どうしたの……っ!?」
目が、あった。




