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3. ブラックな常識、ホワイトな現実

「……はっ!?」



ルミエール聖王国の聖騎士、エクレア・ルミナスが目を覚ました瞬間全身の細胞が戦慄した。



(私は……生きている? 魔王軍の斥候に追い詰められ、確かに死を覚悟したはず……!)



即座に跳び起き、腰の剣に手を伸ばそうとする。しかし、彼女の手が触れたのは鉄の柄ではなく信じられないほど柔らかく滑らかな――毛皮だった。



「グルル……」


「ひっ!?」



真横を見上げたエクレアの身体が硬直する。そこには、神話に登場する創世の神獣が億の軍勢をも震え上がらせる眼光で自分をじっと見下ろしていた。



「おい、レオ。そいつを踏んづけるなよ。じゅうたんの血汚れを落とすのが面倒になる」



部屋の奥から、心底ダルそうな男の声が響いた。

エクレアが慌てて視線を巡らせると、そこは王族の宮殿すら霞むほどに贅沢で見たこともない洗練された意匠に満ちたリビングだった。そして高級なソファに深々と腰掛け前世の漫画(をシステムで投影した本)を片手に死んだ魚のような目で自分を睨みつけている黒髪の青年――テリーがいた。



「あ、あなた様は……? ここは、いったい……。わ、私は、ルミエール聖王国聖騎士団、第三分隊隊長のエクレア・ルミナスと申します。魔王軍の侵攻を食い止めるべく、救世主の啓示を頼りに森へ踏み入ったのですが……」



エクレアは震える身体を必死に抑え、騎士としての矜持を保つべく自己紹介を絞り出した。彼女の背負う十字架は重い。代々、聖王家の守護を宿命づけられたルミナス家において、戦場での死は名誉そのものとされ私生活など存在しないに等しかった。寝る間を惜しんで鍛錬に励み、民のために血を流すことだけが彼女の生きる唯一の証明だったのだ。


そんな彼女の覚悟を、テリーは冷淡に切り捨てた。



「ここは俺のプライベートゾーンだ。入るなと言ったのに、上空のクソ上司どもが勝手に強制有給消化中の俺の部屋に押し込んできやがった。……チッ、本当に過保護なストーカー神どもめ」



テリーは盛大に舌打ちをすると、本を放り出して冷徹に言い放った。



「事情はシステムから聞いてる。聖王国の聖騎士様だろ。神の祝福で傷は完治させた。お前の後ろにいた化け物どもも塵一つ残さず消毒済みだ。さあ、状況が理解できたら一秒でも早くここから出て行ってくれ」



その徹底して冷酷な物言いに、エクレアは悲痛な表情で床に膝をついた。



「お、お待ちください! 私は……私は神の啓示を、救世主召喚の残光を追ってあの森へ迷い込んだのです! 邪悪なる魔王軍の侵攻により我が祖国は今まさに滅びの淵にあります! どうか、その圧倒的な神獣の力、そしてあなた様の大いなる武力をもって戦場へ赴き我が民をお救いください……!」



エクレアは頭を床に擦りつけ、必死に懇願した。これまでの人生、国のため、民のために命を捧げ、敵を武力で打ち倒すことだけが当然だと教え込まれてきた彼女にとって、目の前の「圧倒的な強者」に直接的な戦力を求めるのは至極当然の義務であり、正義だった。


だが、その言葉は、テリーの逆鱗に触れた。



「――お前、今なんて言った?」



テリーの放つ雰囲気が、一瞬で底冷えするような漆黒のプレッシャーへと変貌する。隣に立つ古代精霊シルフィすらも息を呑むほどの凄まじい「拒絶」の魔力だ。



「武力で戦場に行って戦え、だと? 簡単に言ってくれるな。要するに、見ず知らずのお前たちのために、俺の貴重な時間と労力をタダで差し出して、命の取り合いをしてこいって言ってるんだろ?」


「そ、それは……! ですが、見捨てるにはあまりにも多くの無辜の命が――」


「関係ない。なぜ他人の命のために、俺が自分の人生を消費しなきゃならないんだ。前世の俺が死にかけた時、誰も助けてくれなかった。誰もが『お前が頑張ればみんなが助かる』『責任を持て』と綺麗事を言って、俺の血を、時間を、魂を搾り尽くしたんだよ。お前がやっていることは、あのクソ上司どもと全く同じだ」



テリーはソファから立ち上がり、エクレアを冷酷に見下ろした。



「お前たちの国が滅びようが、一億人が死のうが、俺の知ったことじゃない。俺はもう誰の利益のためにも働かない。戦場なんて一番コストパフォーマンスが悪い場所に誰が行くかよ」


「な、なんという、悪魔のような不条理……! それほどの力を持ちながら、ただ傍観するだけというのですか!?」



エクレアは絶望に唇を噛み締めた。目の前の男は、世界を救う力を持っていながら、ただ自分の怠惰のためにそれを拒絶している。その徹底した個人主義は、聖騎士である彼女の倫理観では到底受け入れられない「悪」だった。



「分かったら消えろ。お前みたいな責任感の塊みたいな奴と一緒にいると、前世の社訓を思い出して吐き気がするんだ」



テリーがそう言い捨てて部屋を去ろうとした、その時。



【アナウンス:運命の神より通知。『テリーの不快感の完全除去』のガイドラインに基づき、対象の少女エクレアをこのまま外に放逐した場合、高確率で精神的ストレス(後味の悪さ)が再発すると懸念されます。よって、少女に『絶対に外の世界の情報を持ち込ませない、かつ敷地内の快適性を向上させる無害な労働』を課すことを推奨、および結界を一時ロックします】



「……おい、ふざけるなクソ神がああああ!!」



テリーの絶記が響くのと同時に、玄関の扉に幾重もの神聖な錠前がガチガチと出現し、完全に閉鎖された。

神々は、テリーが「罪悪感」や「後味の悪さ」で引きこもりライフを楽しめなくなるのを防ぐため、エクレアを「完全に無害化された身内」としてここに定着させようと、力技で介入してきたのだ。



「な、何が起きたのですか……!?」



混乱するエクレアの前に、シルフィが静かに歩み出た。



「エクレア様。神々の意志は絶対です。あなたはこの家から出ることも戦場へ戻ることももう二度と許されません。あなたが今後生き延びる道は、我が主の『引きこもりライフ』をサポートする従者となること、それだけです」


「そ、そんな馬鹿な! 私は国へ戻り、戦わねばならないのに……!」


「無駄だ。あいつら(神々)の『過保護なハラスメント』は、世界の理そのものを書き換える。お前がここで首を吊ろうが、結界の外へ飛び降りようが、自動で蘇生されてここに引き戻されるぞ」



テリーは頭を抱え、ひどく疲弊した様子でソファにドサリと座り直した。



「……ハァ。もういい、分かったよ。神どもの思い通りにしてやる。ただし」



テリーはエクレアを指差し、極めて厳しい、しかしどこか奇妙な調子で宣告した。



「ここにいる以上、俺のルールに従ってもらう。もし破ったら、神の結界をすり抜けてでもお前を魔王の目の前にテレポートさせてやるからな」



エクレアはゴクリと唾を飲み込み、覚悟を決めて背筋を伸ばした。



(どんな過酷な労働……どんな邪悪な儀式を課されるというのだ……!)



「言え、悪魔の救世主よ。どんな苦行であろうと、私は耐えてみせる!」


「よし、第一のルール。――『一日の睡眠時間は最低でも8時間を厳守すること』」


「……は?」



エクレアの凛々しい顔が、一瞬でマヌケに歪んだ。



「第二のルール。『休日は完全週休二日。残業は原則禁止。もし有給を消化しきれなかったらペナルティを課す』。第三のルール。『ご飯は三食、シルフィが作った美味いものを残さず笑顔で食べること。義務感で食べるのは禁止だ』。……以上だ。これを破ることは絶対に許さん。お前のような仕事中毒者は、まずその歪んだ労働観を根底から叩き直してやる」


「な……何を、言っているのですか……?」



エクレアは完全に思考が停止した。

国のため、民のために「命を削って戦え」「寝る間を惜しんで奉仕しろ」と叩き込まれてきた彼女にとって、テリーの提示した条件は、厳格な命令の形をとった、未知の「超ホワイトな楽園」の証明でしかなかった。



「勘違いするなよ。お前が過労で倒れたりしたら、俺の引きこもり空間の雰囲気が悪くなる。これは俺の平穏のための『義務』だ。分かったらさっさとその血まみれの鎧を脱いで、シルフィに洗濯してもらえ。その後は強制的に昼寝の時間だ」



テリーは再び前世の漫画に目を落とし、エクレアを完全に無視し始めた。

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