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絶対なる『檻』、あるいは至高の『繭』

――ドサリ、と。


湿った土と、むせ返るような青葉の匂いが鼻腔を突いた。



「……っ、がはッ!」



彼は大きく息を吸い込み自分の胸へと手を当てた。ドクドクと力強く打つ脈拍。薄汚れたビジネススーツではなく神々の手によってあつらえられた上質で滑らかな漆黒の魔導衣。


また、生かされた。自分の意志を完璧に蹂躙され、四度目の生を強制的に駆動させられたのだ。



「……クソが。どこまで俺をコき使えば気が済むんだ、あのブラック神どもは……」



よろよろと立ち上がり周囲を睨みつける。そこは、巨木が陽の光を遮る薄暗く広大な原生林の真ん中だった。ただの森ではない。大気中に満ちる魔力の濃度が異常に高く、呼吸をするだけで身体の奥底から力が湧き上がってくるのが分かった。


『万象解明システム』が、彼の思考に呼応して網膜に淡い光の文字を浮かび上がらせる。



【現在地:大陸未踏不帰の領域『絶界の神樹海』中心部】

【環境状況:極めて良好。神々の直接干渉により、半径五十キロメートル圏内の因果律を固定。あらゆる外敵、および他世界の知的生命体の侵入を物理的・概念的に遮断しています】



「本当に……隔離しやがったな」



彼が呆然と呟いた、その時だった。

空間がぐにゃりと歪み、黄金の光とともに、神々が遣わした『しもべ』たちが姿を現した。



「――お目覚めですね、我があるじよ」



現れたのは息を呑むほどに美しい白銀の髪を持つ『古代精霊』。そしてその足元には宇宙の星々を宿したような毛並みを持つ、大虎の姿をした『神獣』が静かに伏せていた。どちらも、一国を数秒で滅ぼせるほどの神威を放っている。


彼は本能的に身構え、奥歯を噛み締めた。



「……今度は最初から二匹がかりか。言っておくが、俺を説得して魔王討伐に行かせようったって無駄だぞ。ここでまた俺の首をハネさせたいか?」


「滅相もございません」



古代精霊は恭しく頭を垂れ穏やかな、しかし絶対的な平穏を湛えた声で言った。



「私たちは、かつての無能な案内人たちのように、あなた様に義務を課すためにここにいるのではありません。我が主。私たちは神々より、あなた様の『絶対的な生の保障』と『完全なる安寧の死守』を命じられたしもべにすぎません。あなた様が再びその尊きお命を断たぬよう、あらゆる不快から遠ざけることこそが私たちの存在意義です」


「……何?」



彼が眉をひそめると、精霊は微笑み、すぐ後ろを指し示した。

そこには、鬱蒼とした森の景観にはおよそ似つかわしくない一軒の邸宅が佇んでいた。木の温もりを活かしながらも、一切の隙なく洗練された絵本に出てくるような美しい外観の家。



「あちらが、神々があなた様のために用意した『檻』であり『家』でございます」



精霊に促されるまま、彼は警戒しながらも家の中へと足を踏み入れた。

一歩入った瞬間、彼は自分の常識が音を立てて崩れるのを感じた。



「な、んだ、これ……」



内部は、前世の高級ホテルのスイートルームを遥かに凌駕する恐るべき『快適空間』だった。

ふかふかの特級絨毯。座った瞬間に身体が溶けそうな極上のソファ。蛇口をひねれば、神殿の聖水と同等の純度を持つ冷たく美味な水が無限に湧き出る。


さらに奥の寝室には世界最高峰の絹で作られたベッドが鎮座していた。横たわるだけで前世で蓄積した精神的疲労すら根こそぎ吸い取ってくれるような魔術的な安眠効果が付与されている。



【設備解説:本邸宅内は常に最適な温度・湿度(二十二度・五十%)に24時間自動調整されます。また、キッチンには『無限食糧魔導庫』が設置されており、あなたが望むあらゆる美食が、調理不要かつ最高の状態で無限に呼び出されます】



システムのアナウンスを聞きながら彼は呆然と高級ソファに深く腰掛けた。背徳的なまでの心地よさが、彼の身体を包み込む。前世の段ボールとパイプ椅子に囲まれた深夜のオフィスとは文字通り天と地ほどの差だった。



「……おい。これだけの環境をタダで与えるわけがない」



彼は、にこやかに控える精霊と神獣を冷たい目で見つめた。



「前世でもそうだった。最初はアットホームだの、福利厚生が充実してるだの言って、入社した途端に地獄のデスマーチが始まるんだ。分かってるぞ。この至れり尽くせりの環境の『対価』として、俺はここで何をすればいい? どんな魔法の技術を学べばいい? 世界のシステムとやらをたたき込まれて、いつ、どのタイミングで、どの戦場に駆り出されるんだ?」



彼の言葉には搾取され続けた人間特有の深い不信感と怯えが混じっていた。


古代精霊は哀れむような目を一瞬だけ見せ、それから首を横に振った。



「いいえ、我が主。何も、お教えいたしません。この世界には『魔力駆動式自動文字編纂技術スクロール』や『空間跳躍術式』など、前世の科学を凌駕する便利な魔法システムが多々ありますが、あなた様がそれらを修復や戦闘のために学ぶ必要は一切ございません。――ここで、何をすべきか、ですか?」



精霊は優しく、しかし明確に断言した。



「『何もせず、ただ穏やかに過ごすこと』。それだけが、あなた様に与えられた唯一の回答であり、神々が流した涙の結論でございます」


「……何も、しない?」


「はい。あなたがこの家で朝遅く起き、美味しいものを食べ、読書をし、飽きたら眠る。誰のためでもなく、ただご自身の快楽のためだけに時間を浪費する。あなたがそうして『満足して、生きている』という事実そのものが、世界の裏側の深淵を抑え込む楔となるのです。あなたが何もしないことこそが、最大の職務であり、世界の救済なのです」



彼は言葉を失った。


何もしなくていい。

他人のために人生を消費しなくていい。

ただ生きて、引きこもって、ぐうたら過ごすことだけが求められている。



「……ハハ」



彼の口から、乾いた笑いが漏れた。

神々をその執念で屈服させた結果、手に入れたのは皮肉にも「何一つ搾取されない世界一贅沢な引きこもりライフ」だった。死ぬことすら許されない絶対の檻。だが同時に、それは彼が前世で血の涙を流しながら渇望した究極の平穏の繭でもあった。



「いいだろう、クソ神ども。お前たちの用意したこの完璧な『檻』、骨の髄までしゃぶり尽くしてやる」



彼はソファに深く背を預け、目を閉じた。

誰の利益のためにも動かない。誰の指図も受けない。

最強の力を持ちながら、一歩も外に出ないと決意した男の前代未聞の異世界スローライフ(監禁生活)が今度こそ静かに幕を開けた。


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