3. 異端の料理番と、元聖騎士の「醤油」開眼
ある日の午後、テリーはキッチンの作業台に籠もり怪しげな黒い液体が詰まった樽を睨みつけていた。
その姿は、普段の「働きたくないオーラ」を完全に消し去り前世のプロのエンジニア顔負けの凄まじく鋭い眼光を放っている。
「温度管理は完璧、魔術による発酵プロセスの加速も理論値通り。……あとは、この『圧搾』の工程だな」
「テリー殿、一体何をされているのですか? 非常に……その、香ばしいというか、嗅いだことのない濃厚な香りが漂っておりますが」
恐る恐るキッチンを覗き込んできたのはエクレアだった。最近の彼女は、テリーが「趣味」に没頭するときの異常な集中力を理解し始めていた。世界を救うことには一ミリも興味を示さない男がなぜか「食い物」のことになると神の領域の魔力を平然と投入するのだ。
「これか? 前世の知恵の結晶、『醤油』だよ。これが完成すれば、俺の引きこもり食生活のクオリティが跳ね上がる。……おい、エクレア。ちょうどいいところにきた。お前のその無駄に鍛え上げられた聖騎士の筋力、ここで使え」
「な、私の武を、その黒い液体のために使えと……?」
「武じゃない、ただの肉体労働だ。この布に包んだ諸味を、この器具を使って全力で、かつ均一に押し潰せ。お前の精密な身体制御なら、機械並みの圧力をキープできるだろ」
エクレアはむっとした。自慢の「聖剣の加護」を受けた筋力を調味料の圧搾に使えというのだ。しかしテリーの目は本気だった。ここで断ればまた「有給休暇(ハンモックの刑)」を課されるかもしれない。
「分かりました……! 我が聖騎士の力、見せてくれよう!」
フンッ!! と気合を入れエクレアがレバーを押し下げる。彼女の完璧なパワーコントロールにより、じわりじわりと美しい琥珀色の液体が樽の底へと流れ落ちていく。その瞬間、キッチン全体に芳醇でどこか懐かしくも食欲を狂わせる最高の香りが満ち溢れた。
「ほう……これが……」
エクレアの鼻腔がピクピクと動く。
テリーは落ちてきた液体を小さなスプーンですくい、ペロリと舐めた。
「美味い……! 完璧だ。コクもキレもある。……ほら、お前も舐めてみろ。労働の対価だ」
手渡されたスプーンを、エクレアは疑り深く口に運ぶ。
次の瞬間、彼女の脳裏に、未だ見ぬ「東方の神秘的な大自然」の光景が広がった。塩気の中に広がる圧倒的な旨味と深み。これまで聖王国で食べてきた、ただ塩を振っただけのパサパサの肉料理とは、次元が違いすぎる。
「な、なんですかこれは……!? 旨味が……旨味の暴風雨が、私の舌を蹂躙していく……!!」
「だろ? これをな、新鮮な肉に塗って焼いたり、白飯にかけたりするんだよ。想像してみろ、最高だろ?」
「最高、です……。テリー殿、これがあれば、我が国の貧しい食文化など一瞬で――」
「国は関係ない。これは俺たちが美味いものを食うためのものだ。よし、エクレア、追加でもう一樽搾るぞ。残業代として、今夜はこれで味付けした『極上唐揚げ』を山盛り作ってやる」
「ざ、残業……! 喜んでお供します、テリー殿! もっと、もっと搾りましょう!!」
正義の聖騎士は一本の醤油の前に完全にテリーの「趣味の奴隷(自発的アシスタント)」へと調教されていくのだった。




