第二十話 美と醜
また、船が大きく揺れた。
雨音が甲板を打つ音が聞こえ始め、雨が降ってきたのだと気づかされる。
暗い調理場とは裏腹に、フレンダの精神は高揚していた。
なぜ、今まで思い当たらなかったのだろう。
なぜ、目の前にあった、その食材の存在に気が付かなかったのだろう。
世には様々な美食家が存在する。
その中には世界中の珍味を求め、下手物を好んで口にしたものも居るという。
そんな中で、ほんの一部、ほんの一握り、片手の指ほどもいない数の美食家が到達したという狂気
こんな時でなければ、ソフィアに供することは出来ないだろう。
フレンダは自らの左腕をロープで強く縛った。
奴隷として売られ、買われ、劣悪な環境で殺しを仕込まれ、どん底で足掻く私を救い上げてくれた。
美食という生きがいを教えてくださった。
その恩義を、今こそ返す時。
美食という狂気で返す時。
だんだんと腕の感覚がなくなっていく。
まな板の上に置かれた最高級の食材を見据え、右の手で肉切り包丁を持つ。
満足してくれるだろうか。いいや、必ず満足するよう調理して見せる。
フレンダは、自らの腕に包丁を振り下ろした。
振り下ろした、はずだった。
気が付くと、背中に痛みを感じた。包丁も手に持っていなかった。
背後に積まれた空樽に投げ飛ばされたのだと気が付くのに、少しの時間を要した。
崩れた空樽からようやく体を起こすと、調理台の前には、包丁を持ち、冷めた目でこちらを見据えるアーノンの姿があった。
「お前は、姫様を餓鬼に堕とすつもりか。」
哀れみも、同情もなく、ただ凍えるような声色だった。
先ほどまでの高揚しきった感情は、すっかり冷え切っていた。
自分のやろうとしていたことの愚かしさに背筋が凍り付く。
しかし、今の自分にはソフィアが満足する料理は作れないだろう。
何も、わからなくなった。
「……私……どうすれば……」
蚊の鳴くような声が口をついた。
「知らん。自分で考えろ。」
無感情な返事が返ってくる。
アーノンは包丁を持ったまま、調理場から出て行った。
扉の向こうからは子供のように声を上げて泣く女の声がした。
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