第十八話 迷信にも信心
船はさらに南に向かう。
徐々に空気が暖かくなり、湿気が多くなり、冬の服では過ごすことができなくなってきた。
そんな中、薄着で航海日誌を書きながら、船医の報告を聞いた船長は素っ頓狂な声を上げる。
「航海病が未だに出ていない?」
長距離の航海を行っていると、体調を崩し、体から血を噴き出し、次第に体が腐っていく病にかかる者が多くいる。
原因は、海の湿った空気とも、腐った肉が原因とも言われていたし、海の呪いだと言う者たちも多かった。
出航から丸30日、そろそろ航海病の兆候が表れるはずだと船長も覚悟を決めていた。
思い当たる節は……ある。
船長は今までの航海と明らかに違っている点を思い浮かべた。
まず、ソフィアの従者たちが、頻繁に洗濯と掃除を行っていることだ。
特にメディとかいう女は、何かにかられるように、船員たちの衣服を洗っていた。
次に、ソフィアの行っている読み聞かせだ。
航海中は、とにかく娯楽が少ない。非番のほとんどは眠るか簡素なギャンブルで時間をつぶしていた。
そんな中、船員の誰かが、ソフィアに本の読み聞かせを願い出たのだ。
船員たちのほとんどは読み書きができない。暇のほとんどを読書に費やすソフィアが新鮮に映ったのだろう。
ソフィアは定期的に、持ち込んだ本を船員たちに読み聞かせていた。
鈴の鳴るようなソフィアの声を、ある者は聞き入り、ある者は寝物語にし、ある者は労働歌の代わりに仕事をしながら耳を傾けた。
そんな彼女の声が海の呪いたる航海病を跳ねのけている可能性もある。
次は食事だ。
フレンダが調理場を占拠したことにより、船内で供される料理が劇的に向上した。
はじめは野菜を食うことを良しとしなかった船員たちも、フレンダの作る有り物で最大限工夫された料理には抗うことができなかった。
最後に……見栄だ。
ソフィアの読み聞かせ、フレンダの料理、メディの洗濯と、甲斐甲斐しく世話をしてくれる女ども。
そんな女たちに船員たちは……見栄を張りだした。
ひげをそり、衣服を整え、水浴びを頻繁に行った。
これらの要素の一つ、あるいは複数が作用して、航海病を防いでいる可能性がある。
それ自体は喜ばしいことだ。
しかし、大きな問題がある。ソフィアたちと共に航海するのは、今回限りだ。次の航海では、彼女ら抜きで同じ状況を整えなくてはならない。
船長は背もたれに体をあずけ、大きくのけぞる。
「船医、お前に新しい仕事をやろう。」
のけぞったまま船長は語る。
「散髪や髭剃りの時でいい、船員たちに噂を流せ。
『女の声は海の呪いを遠ざける。』
『女の料理は航海病の防止になる。』
『船に乗る女は海の女神が宿るから、身なりを整え無礼の無いように。』
……こんなところか」
船医は頷くが、すぐに尋ねてきた。
「『野菜を食うように』とは言わなくて良いのですか?」
船長は短く笑った。
「野菜なんて、出せば全員食う事がわかったじゃねぇか。」
船長と船医は見つめ合うと堰を切ったように笑いあう。
ーーー笑い声と呼応するように風が西から吹き始めた。




