2. オーエット・インブレンナ、傷、味、思い出
「うわあ。気持ち悪い。あの銅像、こっちを見ているよ」
フレアが足を止め、腕をさすった。フレアの視線が止まってる屋根には金色の小さな銅像が並んで飾られていた。片手を腰に回し、もう片方の手で笛を吹く姿。笑っている顔はどれもローレンとフレアの方を向いていた。
「以前、私が行ったお店の入り口はあそこだったよな。ここは何があるの?」
ローレンが首をそらして銅像を見上げながらつぶやくと、先を歩いていた商人ギルドの案内人が丁寧な口調で答えた。
「ああ、ここはギルドの奥です。魔法使い様や私たち、商人と直接取引される方だけがお入りになれる場所でございます」
狭い扉をくぐると、人々の話し声が低くざわめき、どこかで何かを叩く音が規則的に響いていた。
「うわあっ!」
どこかで急にローレンたちの前に現れた影でフレアは反射的に後ずさりした。
ローレンたちの前には奇妙な眼鏡をかけた老人がいた。腰にはあらゆる工具が挿さってがちゃがちゃと音を立て、白髪は雲のように整えられて空へ伸びていた。
「ここに何のガキが入ってきたんだ?」
老人が低く沈んだ声で、まるで喉を押さえたまま言葉を出すような調子で尋ねた。
「ガキじゃない! 私は魔法使いだ!」
ローレンが声を荒げた。老人は驚いたように目を見開き、ローレンを上から下まで見回した。
「ほお、魔法使いだと? お前、その服……見覚えのある服だな」
「ふん! これは私の師匠、ノーブルがくれたものだ」
「ノーブル? セラフ・N・ボールドフィーバーか? 確かに。ところどころ変わっているが、あいつが着ていた服だ」
「ふうん、おじさん。ノーブルをどうして知ってるんだ? 魔法使い? あ、フルナ(声を出せない者)だな?」
老人の目つきが一瞬細くなった。
「ガキ、よくもその言葉を本人の前で使うな。ここでは俺はスクラヴェンと呼ばれている。ガキと呼ばれたくないなら、お前も自分の名前くらい名乗った方がいいんじゃないか? 魔法学校ではそんなことも教えないのか?」
ローレンはフレアが持っていた箱を指して言った。
「ふん! 私はローレン、こっちはフレア。私たちはこれを売りに来たんだ」
スクラヴェンが鼻をひくつかせ、目を細めた。
「ほお、お前が作ったのか? この香り……フレイヤの涙だな。ふん! ちゃんと学んでいるな」
スクラヴェンが案内人に言った。
「よし、こいつらは俺が相手をしよう。ついて来い」
スクラヴェンがギルドの奥へと進んだ。
灯りが並んで揺れる廊下、その影がまるで水の中を歩くようにゆっくりと壁の上を滑っていった。通り過ぎる道々に小さな機械仕掛けが目についた。ぜんまいで動く小さな人形が鐘を鳴らす時計だった。
「うわあ!」
「時計を見るのは初めてか? ひよっこ冒険者か?」
ローレンが顎を上げ、腕を組んでまず鼻を鳴らした。
「ふん、私くらいならこんな時計は見慣れてるよ」
「ふん、生意気だな。若いのに悪いことばかり覚えたな」
「何言ってんだ、あの爺さん」
「ローレン、そんなこと言っても大丈夫?」
フレアが小さくささやいたが、ローレンは答える代わりに鼻を鳴らすだけだった。
扉が開くと、ざわめく声と共にさまざまな物を作る工房が目に入った。誰かが「おい! そこ! そこじゃない!」と叫ぶ声が遠くから聞こえた。
フレアは物珍しそうにあたりを見回してばかりで、歩みがどんどん遅くなった。
廊下を進むほどに灯りの色は揺らめきを失い、青白く静かな光に変わっていった。
ローレンが振り返り、大きく手を振った。
「フレア、早く来て」
スクラヴェンがローレン達を連れた白い壁の前には派手な色の素敵な装飾と模様が彫刻された長い椅子があった。
スクラヴェンが後ろをちらりと振り返り、舌打ちしながら手を振った。首にかけていた金属の球を椅子の横の真鍮色の金属板に近づけながら言った。
「早く座れ」
「うわあっ!」
ローレンたちが椅子に座るとたん、椅子が床からほんの少し浮き上がり、まるで羽根が空中で落ちるように滑らかに動き出した。ローレンは独り言をつぶやいた。
「ふむ、これはどういう魔法なの?」
「ふん、青二才。これがどう動いているのか分からないのか? やはり魔法学校で単純に習っただけでは意味がないということだ。お前がすでに知っている方法だ」
いくつかの扉を通り過ぎ、狭い廊下を抜けると、また別の扉の向こうに数多くの人々が忙しく動き回る空間が現れた。川が曲がりくねるように人々が路地の間を行き交っていた。まるで何層も重なり合った塔のように、一階なのに幾重にも見える構造だった。路地ごとに商人ギルド関連の店が並んで続いていた。
「うわあ。ここにあるものは全部売り物なのか? うわあっ!」
スクラヴェンが指輪をはめた手を金属板へ下ろし、軽く振った。かちりと小さな音が鳴り、椅子はゆっくりと床に足をついた。
「着いたぞ。降りろ」
フレアが古びた茶色っぽい何かを指して尋ねた。
「それは売り物じゃない。俺たちの古い遺産だ」
しばらく歩いて着いた場所で、若い商人が一人、彼らを迎えた。ローレンとフレアに気づいたのか、商人の顔にかすかな笑みがよぎった。
「あ、以前会った商人さんだ」
「おお、これは、ローレン様ですね。あ、スクラヴェンさん」
「うむ、バルニレンか。こいつらを知っているのか?」
「はい、ローレン様は私どもとよくお取引をされていますから」
ローレンはフレアから受け取った箱を机の上に置いた。
「そういえば、もう匂いがしないな」
「ああ、あれらはすべて売れましたよ」
「ほお? まさかあの毛皮をお前たちが持ってきたのか?」
「うわあ、あんなに臭いものを買う人がいるのか?」
「めったに見られない狼の毛皮でしたから。死の匂いは精霊たちを従わせると気に入られていましたよ」
フレアが気になった様子で若い商人を見つめた。
「狼の毛皮は誰が買っていったんですか?」
バルニレンの目がフレアの方を向いたまま、少し止まった。やがて視線をそらし、薬を目の前にかざしながら言った。
「かなり良い薬ができたようですね。これなら今回の取引はお互いにとって良いものですね」
「いいわ。それとクッキーを作りたいんだけど、レシピを知りたいの」
「何のクッキーですか?」
「オーエット・インブレンナ」
スクラヴェンが顔をしかめて手を振った。
「オーエット・インブレンナなんて、まずいものを」
ローレンはスクラヴェンをにらみつけて言った。
「ふん、トニーおじいちゃんが作るオーエット・インブレンナは美味しいよ」
スクラヴェンの顔が赤黒くゆがみ、大きなため息をついて言った。
「トニーとは、聞きたくない名前だな。文句屋のアントンのことか?」
ローレンは明るい顔で尋ねた。
「トニーおじいちゃんを知ってるの?」
スクラヴェンが鼻で笑って言った。
「知らないわけがない。俺が魔法学校に入学して、翌年にあいつは魔法使いになったんだ。ふん、うるさくて怒ってばかりの人間だったよ」
バルニレンはローレンたちから受け取った薬を片付けた後、再び戻ってきて言った。
「ああ、オーエット・インブレンナは私どもも知ってはいますが、お教えすることはできません。魔法使いギルドに行って依頼を受けるのがよろしいかと」
ローレンは顔が青ざめて小さく言った。
「あ、依頼だって?」
「お作りになったら、私どもも買わせていただきます。なかなかここフェーニルでは味わえないものですから。シードホートの魔法使い方が好んで食べるクッキーだと言えば、よく売れるでしょう」
「ふん、若い者は金になるなら何でも売ろうとするんだな。お前たちは何でも金になれば売るんだろう」
バルニレンが肩をすくめた。
「あはは、今忙しいものでして」
「ふうん、私たちが食べる分なのに。まあ、余った分は持ってくるよ」
フレアが笑いながら言うと、バルニレンの目つきが一拍遅れて緩み、また元に戻った。
ローレンとフレアは商人ギルドを出て立ち止まっていた。
「ローレン、どうする?」
ローレンは深いため息を一つついて言った。
「はあ、仕方ないな。行こう」
黒っぽい異質な建物がガングラードの他の建物の間にそびえ立っていた。まるで街全体を見下ろす見張りのように、その影だけが妙に長く伸びていた。
扉が開くと、中から声が先に聞こえてきた。
「いらっしゃいませ。冷たい風が吹く前にもいらっしゃいましたね。まだガングラードでご用がおありですか?」
受付が机の向こうで笑みを浮かべたまま、ローレンとフレアを迎えた。
ローレンはしばらく黙っていてから尋ねた。
「オーエット・インブレンナ、レシピを知りたいんです」
受付は振り返り、古びた陳列棚を眺めながら言った。
「伝統のある魔法使いたちのクッキーですね。最初に作ったのはビルメイズ様とボルバプ様だったそうです。味よりも魔法使いたちの腕自慢のようなものだったので、元々は美味しくなかったそうです。その後誰かが赤い実を入れて、甘みと酸味を加えたとか。ふむ、私はここで食べたことがないのですが……懐かしいですね。私はマリ様のバージョンが好きなんです。白くて柔らかくて、口の中で雪が溶けるように冷たくて甘い……」
「私はトニーおじいちゃんが作ったのが美味しかった」
受付は振り返り、金色の皿を取り出して机の上に置いた。
その目がローレンとフレアをゆっくりと見回した。
「ほお、それはかなり高級なレシピです。子供の舌には合わないかもしれませんが……それより」
受付の視線がフレアにしばらく留まり、また戻ってきた。
「シードホートの魔法使いでない方にはお教えできません」
「私が作るの。私が食べたいものだから」
「それをローレン様がお作りになると? ふふ。薬を作ることとクッキーを作ることはまったく別のことです。いくらローレン様でも、そのクッキーをお作りになれるはずがございませんよ」
「前にトニーおじいちゃんを手伝って作ったことがあるの。何が入ってるかは興味がなくて知らなかったけど、作る過程は覚えてる」
受付はローレンをしばらく見つめてから、やがてうなずいた。
「まあ、ここではなかなか味わえないものですから……依頼を一つお引き受けいただければ、必要な材料はこちらでご用意いたします」
ローレンは鞄から金貨を取り出し、金色の皿に載せながら言った。
「どんな依頼なの?」
受付は右手の受付台に挿さっている巻物を指先でなぞりながら、まるで手で読むように動かし、一つ選んで取り出してローレンに差し出しながら言った。
「リントン様が頼まれたものです」
ローレンの表情が少し強張った。
「うっ、リントンだって? ふむ……言語分析学科でクッキーを作るのか?」
受付が目を細めてローレンを見下ろした。
「何のためのものかは私どもも存じませんが、クッキーではないでしょう」
フレアがローレンを振り返った。
「ねえ、シャーリンも忙しいし、私たち二人で行ってみようか?」
「え? ヘルもいないのに、本当に大丈夫かな? 誰か手伝ってくれる冒険者はいないかな?」
「大丈夫。採集だもん。それに私一人でも闇の森に行ったことがあるんだから」
受付が鋭い眼差しでローレンを見つめながら両手を組み、ローレンは戸惑ったように依頼書を鞄にしまい込んだ。
「ううん、もう行こう。私たち二人だけでもこのくらいは大丈夫。それにあんたも冒険者じゃない」
フレアが肩を張った。
「ああ、そうだね。よし。冒険だ」




