崩壊の序曲
自宅のベッドの上で、葵は膝を抱えて小さく丸まっていた。
胸を押し潰すのは、ふたつの重い現実。
玲央から命じられた花束を用意できなかったという焦りと、凛華に突きつけられた「大切にされているようには見えなかった」という残酷な言葉。
「ううん……そんなことない。私は大事にされている……大切にされている……」
暗い部屋の中で、葵は自分に強く言い聞かせるように何度も呟いた。そう思わなければ、心が破裂してしまいそうだったから。
(玲央は優しいから……私が大事だから……花束がなくても、きっと許してくれる……)
壊れかけた心のまま、葵は細い糸のような希望に縋り付いていた。
同じ頃、自室で姿見の前に立つ相沢玲央は、何度も髪型を整えながらニヤニヤと醜い笑みを浮かべていた。
「くっくっ、明日凛華ちゃんを落とせたら、俺の人生マジでイージーモード確定だな」
白銀家の財力と、誰もが羨む美貌の彼女を手に入れる未来を妄想し、悦に入っている。そして、ふと面倒くさそうに吐き捨てた。
「……あーあ、それにしても用済みになった葵の処理が面倒くせぇな。あいつ、ショックでいっそ自殺でもしてくれねぇかな」
自分の吐き出した言葉の卑劣さにすら気づいていない玲央。
部屋の隅に仕掛けられた盗聴器と隠しカメラが、その表情も声もすべて完璧に記録していることなど、知る由もなかった。
プルル……と鳴るスマホを拾い上げ、凛華は耳に当てた。画面には「橘颯太」の文字。
『……白銀か。葵なら家に送っていった。今は部屋で休んでる』
「ありがとう、橘君。あの子……何か言っていたかしら?」
『いや、ずっと黙ったままだ。……明日、どうする気だ?』
凛華は冷徹な声で、明日の計画を告げる。
「明日、もし葵が相沢君に会いに行くようなことがあっても、あなたは手出しをせず、陰から見守っていてちょうだい」
『手出しするな!? あいつが何するか分かんねえぞ!』
「分かっているわ。けれど、葵が自分の目で『現実』を見なければ意味がないの。その代わり……相沢君が去った後は、絶対に葵を抱えてでもイベント会場へ連れてきて。いいわね?」
『……分かった。信じるよ』
翌日、創立記念イベントの朝。
颯太は朝一番で葵の家を訪れ、寄り添うように登校した。
昇降口に着いたところで、葵は視線を彷徨わせながら拙い嘘をついた。
「あのね、颯太くん……私、先生に呼ばれてるから……先に行ってて?」
「……おう、分かった。無理すんなよ」
受け入れるフリをして背を向けた颯太だったが、葵の姿が見えなくなった瞬間、息を殺してその後を追った。
葵が向かったのは、校舎裏の敷地。
そこには、不機嫌そうに腕を組む玲央が待っていた。
「おい葵、頼んでおいた花束はどうした?」
「ご、ごめんなさい玲央……用意……出来なくて……っ」
その言葉を聞いた瞬間、玲央の顔が凶悪に歪んだ。
「は……? ふざけんなよ!!」
パァンッ!!
甲高い乾いた音が響き、葵の体が地面に弾き飛ばされた。
思い切り頬を張られた葵は、痛みに耐えかねて地面に伏せる。
「使えねえなクソ女が!! お前なんかマジで何の価値もねえんだよ!!」
怒り狂った玲央は、倒れ込む葵の腹部を容赦なく蹴りつけた。
「がはっ……っ、ごめ、ん……ごめんなさい、玲央……っ」
暴力を振るわれながらも、壊れた人形のように謝罪を繰り返す葵。
玲央は「ちっ、気分最悪だわ」と唾を吐き捨てると、うずくまる葵を置き去りにしてその場を去っていった。
……物陰でその光景を見ていた颯太の全身が、殺気立った怒りで震えていた。
拳を強く握り締め、爪が手に食い込んで血が滲むほどだった。だが、凛華との約束を守り、歯を喰いしばって耐え抜いた。
玲央の姿が完全に消えたのを確認し、颯太は葵の元へ駆け寄った。
「葵……! 葵、大丈夫か!?」
駆け寄って肩を抱きかかえるが、葵の目の焦点は定まっていなかった。生気を失った瞳で、ただ弱々しく呟き続けている。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……クソッ……!!」
颯太は溢れ出る悔し涙を拭いもせず、意識が朦朧とする葵をその腕にしっかりと抱き上げた。
凛華の待つ、創立記念イベントの会場——全校生徒が集まる体育館へと、颯太は力強い足取りで突き進んでいった。




