第三章〈現在〉また同じ見出し
朝の光は、夜の嘘を洗い流すほど強くない。剥がしきれない嘘は薄い膜として残り、その膜の上に新しい言葉が貼られる。貼られた言葉は、誰かの手垢をまとい、最初からそこにあった事実みたいな顔をする。顔をした事実は、人の判断を借りずに歩き始めることがある。
九条雅紀が医務院の通路でスマートフォンを開いたのは、空き時間の癖ではない。通知が増えたからだ。増え方が、普通の速さではなかった。画面の上から下へ流れる文字列は、本人の発言ではない。断片だ。断片が、断片のままではなく、文脈の形を取り始めていた。
「右にある心臓」
「稀な体質」
「関係者」
「不幸」
「触れたら危ない」
「右側注意」
誰が最初に言ったのかは、もう意味を失っている。意味を失った言葉は強い。責任が剥がれると、残るのは面白さだけになる。面白さは、善悪より早い。早いものは、遅い現実を待たない。
九条は肺の奥が冷えるのを感じた。冷えは空調のせいではない。自分の身体の情報が、自分の外で遊び道具になっていく感覚だ。検案という仕事は、世間の感情と距離が近い。死体に向く視線は、いつもどこかで人の欲を含む。それでも矢印は基本的に「遺体」に向かう。遺体が中心にある限り、九条は呼吸の位置を保てる。
今日は違った。矢印が「九条」に向いている。しかも胸の中身を材料にして。材料にされるのは病名だけではない。言い方、沈黙、姿勢、歩幅。医師の生活が、診断と同じように切り刻まれ、勝手に貼り直される。
通路の角を曲がると、受付の前にいつもより人が多い。職員が電話を取っている。取っては切り、また取る。表情が硬い。硬いが、声は柔らかい。柔らかくしないと相手が暴れる。暴れる相手は、たいてい自分の正しさを信じている。
「取材は受け付けておりません」
「申し訳ありません」
「はい、はい、はい」
九条は足を止めずに通り過ぎた。止めれば、そこに「当事者」が立っていることを確定させる。確定したものは、次に撮られる。撮られたものは「隠していた」に変換される。変換される順番が、もう決まっているのが怖い。
視線が刺さる。刺してくるのは職員ではない。職員は直接には攻撃しない。攻撃は外から来る。外から来た攻撃は、建物の中の空気だけ変える。空気が変わると、人は言葉を選ぶ。言葉を選ぶ動作は、傍から見れば「何かを隠している」に変換される。
そういう変換が起きる場所だと九条は知っている。知っているのに、胸の奥が少しだけ苦しくなる。苦しさは発作の前兆ではない。前兆ではないのに、それらしい形をしているのが怖い。形が似ているだけで、身体は勝手に記憶を引き寄せる。引き寄せられた記憶は、呼吸の余白を削る。
その頃、捜査一課のフロアでは別の種類の冷気が流れていた。空調の温度は同じでも、言葉の温度が落ちると部屋は冷える。冷えた部屋では、人が慎重になる。慎重になると、動くのが遅れる。遅れは、いまの敵だ。
二階堂壮也は資料の束に紙を一枚混ぜて、真壁彰の机に置いた。紙は印刷されたスクリーンショットだ。ネットのまとめ。引用の引用。誰の言葉か分からないように加工されたもの。加工が上手いほど、真実らしく見える。真実らしく見えるほど、否定が燃料になる。
真壁は最初、紙を見なかった。見れば気分が悪くなると分かっているものは後回しにする。だが二階堂は後回しを許さない。後回しにすると「勝手に増える」ものがある。
「これ、ただのネットの遊びじゃないぞ」
二階堂の声は淡々としている。淡々とした声は、感情の正当性を奪う。奪われた感情は、余計に焦る。二階堂は焦らせない。焦らせると、誰かが余計な一言を言う。余計な一言は、火に酸素を送る。
真壁がようやく紙に目を落とす。目に入ったのは「右側注意」という文字だった。冗談の形をしているから厄介だ。冗談の形をした悪意は、否定されにくい。否定すると、否定した側が「冗談が通じない」と処理される。処理された瞬間、悪意は綺麗なまま残る。
「放っておけ」
真壁の返事は短い。短い返事は自分の中で決めるための道具だ。決めれば動ける。動くために決める。決めるために放る。真壁の仕事はそういう流れで回っている。
二階堂は首を振らない。首を振ると対立になる。対立は記事になる。
「放ると関係者が増えるよ。勝手に」
真壁が紙を机に落とした。紙が、空気の上に薄く漂う感じがした。実際には落ちただけなのに、落ち方が軽い。軽いものは遠くへ飛ぶ。遠くへ飛ぶものは、回収されない。
「関係者って」
「誰が言ったか分からないやつが、誰かの顔を作る。顔ができると、次は家族。そして住所、過去、病歴」
二階堂は事務的に言う。事務的な語の並べ方が、逆に生々しい。生々しいのは、順番が合っているからだ。火の広がり方を、二階堂はいつも先に見ている。
真壁は舌打ちしそうになって飲み込んだ。舌打ちは、自分が負けている合図になる。負けていると分かると、相手は勝ち方を変える。勝ち方を変えた相手は、もっと汚い。
「九条のやつ、医務院で何か言ったのか」
「言ったんだろうな。言ったと見える形に切られてる」
二階堂は紙の端を指で押さえ、別のページを示した。そこには、元記事の引用が載っている。引用の中に免責が詰め込まれていた。
「〜とも言われる」
「可能性は否定できない」
「専門家の間でも議論がある」
「偶然の一致かもしれない」
免責は、責任を逃がすための道具に見える。実際はもっと厄介だ。責任を読者に渡すための道具だ。読者が責任を持つと、読者は「信じる権利」を得た気になる。権利を得た読者は、攻撃に躊躇しなくなる。躊躇が消えると、言葉は速度だけになる。
二階堂は続きを見せる。医学的事実としての完全内臓逆位が、比喩に横取りされている。逆、普通ではない、一致。言葉の手つきが巧妙だ。事実の説明をしながら、読者の頭の中で怪談の骨組みを作っていく。骨組みは目に見えないが、出来上がると頑丈だ。頑丈な枠は、外から叩いても壊れない。叩いた音が「効いている」に変換されるだけだ。
さらにそこへ、喘息が滑り込む。
「発作は力の反動ではないか」
「代償」
「体質と引き換えに何かを得ている」
真壁は眉間に皺を寄せた。腹が立つ。腹が立つのに、怒鳴れない。怒鳴れば「効いている」と相手に教えることになる。効いていると教えると、相手はもっとそこを叩く。叩けば叩くほど、九条の身体は“説明”にされる。
そして紙の下の方に、小さく地名がある。見出しではない。本文の隙間に忍ばせたような書き方だ。忍ばせた地名は読者の好奇心を刺激する。好奇心は自走する。自走した先で誰かが言う。「これ、あそこじゃない?」と。疑問の形をした断定が、生まれる。
「九九尾村」
真壁は、その地名がどこに属する話なのかを思い出せなかった。指が止まる。スクロールではなく、紙を押さえる指が止まる。止まった指の感覚が、胸に触れる。どこで聞いた。聞いた覚えはある。覚えがあるのに、言語化できない。言語化できないものほど胸を刺す。理由がない痛みは、身体の記憶に近い。
真壁は紙を裏返し、また表に戻した。戻しても地名は消えない。消えない地名は、そこに意味があるように見える。意味があるように見えた瞬間、次の手が動く。人は意味を見つけたくなる。見つけた意味を誰かに渡したくなる。
声には出さない。心の中で呟く。呟きは自分だけのものだと思いたい。だが、こういう時の呟きほど外に漏れる。外に漏れなくても表情に出る。表情が出ると、二階堂は気づく。気づいても言わない。言わないことで、真壁に考えさせる。考える時間が、必要なこともある。
「燃え方、もう変わってる」
二階堂が言った。真壁は地名から視線を外し、二階堂を見る。
「どう変わった」
「いまは体質を中心にしてる。次は関係だ。幼馴染とか、家族とか。生活圏を探し始めてる。もう始まってるかもしれない」
「止められるのか」
真壁が聞くと、二階堂は少しだけ目を伏せた。伏せ方が、見ないためではない。見てしまうと胸が痛くなると知っている伏せ方だ。
「止めるって言葉が、酸素になる時がある」
それだけ言い、二階堂は真壁の机から紙を一枚だけ抜き取った。抜き取った紙は、医務院への連絡メモだった。メモには「先に、静かに、数字で」とだけ書かれている。火を消すのではなく、火が面白くならないようにする。二階堂の仕事は、いつもそこに落ちる。
真壁は頷き、立ち上がった。立ち上がる理由を「捜査の都合」にすり替える。すり替えないと、自分の動きが個人的なものになる。個人的なものになると真壁は弱く見える。弱く見えると九条が余計に傷つく気がした。傷つく気がする、という想像を、真壁は嫌った。想像は焦りを作る。焦りは言葉を増やす。
医務院へ向かう車の中で、真壁はスマートフォンを見ないようにした。見れば怒りが増える。怒りが増えると、九条に余計な言葉をぶつけるかもしれない。真壁は九条に怒っているわけではない。だが怒りは矛先を選ばない。選ばない怒りは、いちばん近いものを刺す。
医務院の駐車場はいつもより車が多い。取材車ではない。一般の車が増えている。野次馬だ。野次馬は自分が野次馬だと思っていない。正義だと思っている。あるいは好奇心だと思っている。どちらも、自分が悪者ではないと信じている。悪者ではない人間ほど、止めにくい。
受付の近くで職員が小声で話している。九条の名前が聞こえた。聞こえた瞬間、真壁の背中が硬くなる。背中が硬くなるのは怒りでも恐怖でもない。現場が移ったという感覚だ。捜査の現場ではない。生活の現場だ。
真壁は歩幅を変えずに通り過ぎる。変えれば「気にしている」と示すことになる。示した瞬間、誰かが確信する。確信は、次の行動を正当化する。
廊下の先で九条が歩いてくる。歩き方はいつも通りだ。いつも通りなのに、周囲の空気が違う。人は九条を見ないようにしている。見ないようにしているのに、気配は九条に寄る。寄る気配は皮膚に触れる。皮膚に触れる気配は呼吸を浅くする。
二階堂も近くにいた。九条の横ではなく、半歩後ろ。距離がわずかにある。あることで、二階堂が「広報」だと分かる。広報は距離を保つ。距離を保つのは冷たいからではない。距離があるほど言葉が安全になると知っているからだ。
真壁は九条の前で止まり、声を落とした。落とすのは周囲のためでもあるし、九条のためでもある。大きな声は確定を生む。確定は外へ流れる。
「大丈夫か」
九条はすぐに頷かない。頷くと、心配が成立してしまう。成立すると、心配は事実になってしまう。事実になると、記事が追いつく。追いついた記事は、必ず余計な飾りを付ける。
「大丈夫です」
言い方が薄い。薄い言い方は、持ち上げれば割れる。割れるときの音を、真壁はもう知っている。救急車のサイレンより静かな割れ方を。
「その言い方が大丈夫じゃない」
真壁が言うと、九条の瞳が一瞬だけ揺れた。揺れは恐怖ではない。計算がずれた時の揺れだ。九条もまた言葉を計算している。計算は生きるための道具だ。だが計算は、相手の胸を傷つけることがある。
九条は視線を逸らさずに言った。
「……呼吸は、できます」
できる、という語は強い。強い語は弱さの影を濃くする。真壁はその影に腹が立った。腹が立つ相手は九条ではない。影を作った世界だ。影を作った言葉だ。言葉は、誰かが書いた。書いた人間がいるなら近づける。近づけば止められる。止められると思う自分の傲慢さが、また腹立たしい。
二階堂が小さく割って入る。
「真壁。ここ、音が残る」
音が残る。つまり録音される。つまり切り抜かれる。
真壁は舌の裏を噛み、九条に言うべき言葉を飲んだ。飲んだ言葉は胸の奥で膨らむ。膨らんだ言葉は、別の場所で吐きたくなる。だが吐けば、酸素になる。
「……帰り、気をつけろ」
真壁はそれだけ言った。気をつけろは、何も言っていないに等しい。だが何も言っていない言葉ほど、相手の想像を増やす。増えた想像は、勝手に別の見出しを連れてくる。
九条は小さく頷いた。その頷きが真壁には辛い。辛いのに、それ以上踏み込めない。踏み込めば、九条はまた薄く笑って受け流す。受け流しの中で呼吸が削れる。削れた呼吸が、次の燃料になる。
受付の電話がまた鳴る。鳴るたびに職員の肩が僅かに跳ねる。跳ねる肩は、見えない攻撃に晒されている証拠だ。攻撃は外から来る。外から来る攻撃は、法の中に入りにくい。入りにくいものほど止めにくい。
真壁は医務院を出て、駐車場の列を横目に見た。視線が多い。視線は熱を持たないふりをするが、数が増えると圧になる。圧は、生活の動線を変える。動線が変わると、「隠している」に変換される。変換は連鎖する。
車に乗り込み、エンジンをかけたとき、真壁のスマートフォンが短く震えた。二階堂からだ。文面は短い。
「生活圏、見られてるぞ」
真壁は画面を閉じた。閉じたのに、言葉が閉じない。閉じない言葉が、車内に残る。
生活圏。
その語が、現場より厄介だと真壁は知っている。現場なら線を引ける。生活に線は引けない。線を引いた瞬間、その線が目印になる。
夕方、真壁は帰路の途中で一度だけ遠回りをした。遠回りをした理由を自分に説明しない。説明すると、説明が形になる。形になったものは、自分の癖になる。癖は読まれる。読まれた癖は利用される。
住宅地の角を曲がったとき、空気が変わった。何かがいる気配ではない。何かが「見ている」気配だ。視線は皮膚に触れない。だが空気の密度を変える。密度が変わると、呼吸の入り方が変わる。
九条の住むマンションの前に、見慣れない車が停まっていた。エンジンは切れている。人がいるのに音がない。音がない車ほど怖い。
フロントガラスの奥で、レンズが一瞬だけ光った。光り方が、反射ではなく意志の光り方だった。
真壁の背中の筋肉が反射で硬くなる。反射は訓練の賜物だ。空手の反射ではない。刑事として培った反射だ。
真壁は車に近づく。歩幅は一定。一定の歩幅は相手に揺さぶりを与えない。揺さぶりを与えないのは、相手を油断させるためでもあるし、自分の感情を漏らさないためでもある。
車内の男が動いた。カメラを隠そうとする動き。隠す動きは、罪を認める動きだ。
真壁がドアの窓を叩く前に、男は窓を少しだけ下げた。少しだけ。少しだけ下げるのは、逃げ道を残すためだ。
「何の用だ」
真壁の声は低い。低い声は、相手に言い訳を考える時間を与えない。
「いや、ちょっと……」
「ここ、一般住宅だ。撮るな」
「撮ってないっすよ」
否定は早い。早い否定は嘘に見える。嘘に見えるのに、男は止まらない。嘘を重ねると正直に戻れなくなる。
真壁は男の手元に目を落とす。カメラのレンズ。メモ帳。地図アプリ。
生活圏。
言葉が現実を追い抜くと、次は現実が言葉に追いつかされる。追いつかされる現実は壊れる。壊れた現実の破片は、いつも誰かに拾われて「ほら」になる。
「名前」
真壁が言うと、男は「何で答えなきゃ」と言いかけて飲み込んだ。飲み込んだのは、真壁の目が笑っていないからだ。
真壁の目が笑っていない時、そこには職務がある。職務は個人より強い。強いものに逆らうのは怖い。
男は名刺を出した。名刺の出し方が雑だ。雑な名刺は責任の薄さを示す。薄い責任ほど、記事は強くなる。
真壁は名刺の文字を覚え、返さずに言った。
「帰れ。二度と来るな」
男は「はい」と言い、窓を上げる。上げる前に、真壁の視線が九条の住む階の玄関へ流れたのを男は見逃さない。見逃さないから、男は心の中で物語を強化する。幼馴染。刑事。
材料が増えた。増えた材料は、また同じ見出しになる。
男の車が走り去ると、静けさが戻った。戻った静けさは救いではない。次の火が点く前の静けさだ。
真壁は玄関の前で立ち止まり、ポケットの中のスマートフォンが震えるのを感じた。見なくても分かる。通知がまた増えている。
真壁は画面を開かずに、ただ拳を握った。握った拳の中で、言葉にならない苛立ちが爪を立てる。
真壁はまだ知らない。火はもう、現場ではなく生活に移ってきていることを。
移った火は、煙より先に匂いを残す。匂いは、過去を呼ぶ。
過去が呼ばれると、説明が始まる。説明は、いつも遅れて誰かを歪ませる。




